持ち味薄れた?「孤独のグルメ」特別編への違和感 マンネリこそが持ち味のドラマだったが…
その情報量の多さは、いまの『孤独のグルメ』を確固たる人気シリーズの地位に押し上げた「特有のおもしろさ」=「ファンのニーズ」とのズレがある気がする。『孤独のグルメ』とは井之頭五郎そのものだ。ファンにとっては、内容がブレていて冗長的に感じるのではないだろうか。
本作は、『孤独のグルメ』の作品性を広げているが、それによって逆に本来の“らしさ”が失われている。その背景には、制作陣の脱マンネリへの意識があることが推察される。
エンターテインメントにかかわるすべての人がぶつかるマンネリの壁。同じことを繰り返していれば客に飽きられ、ほかの魅力的なものに移られてしまう。
だからつねに新しい何かを探し、それを盛り込むことで客離れを防ごうとする。一般的にシリーズが長く続けば続くほど、そこに対する内圧も外圧も強くなる。本作においても当然その議論はあっただろう。
マンネリこそが持ち味だった
しかし、『孤独のグルメ』に関しては、そのマンネリこそ視聴者が心地よく気楽に楽しむことができる持ち味であり、それが若い世代をはじめ幅広い層の心を掴んでいる。だからこそ、シーズン10まで愛され続けてきた。
お腹を空かせた井之頭五郎が街の名もない料理屋に入り、ただお腹いっぱいおいしい料理を食べる。それだけでいい。それだけの情報量のストーリーと、深夜30分(放送開始当初)のテレビドラマという枠がパッケージとなって『孤独のグルメ』が成り立ってきたのだ。
それをいま変えようとするのは、本作のプロデュースに参画する松重豊の意向が大きいのかもしれない。
シーズン10をひと区切りとして、さらなる未来への継続性の担保のために、作品を広げようとしているのであれば、従来のフォーマットから新規性を探ることは十分理解できる。そこには、松重豊および制作陣のシリーズへの愛の深さが表れている。問題はそれがファンにどう伝わり、どのように評価されるかだ。
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