少年事件と向き合う「虎に翼」寅子モデルの信念 シンナーやボンド遊び等非行が横行するように
実際の件数でみれば、戦後の混乱が収束するなかで、少年事件は昭和27(1952)年をピークに落ち着いていく。しかし、昭和30(1955)年頃から再び増加に転じている。
シンナーやボンド遊びといった非行が横行し、自動車やオートバイの所有台数が伸びたことを受けて、少年が起こす交通事故も増えた。そして、昭和40年代からは学生運動が急速に広がり、多くの学生たちが逮捕されることになる。
嘉子が着任した昭和38(1963)年頃には、少年事件を扱う少年院、補導委託先、家庭裁判所のいずれもが、パンク状態に陥っており、嘉子曰く「もうそれこそ破産状態だったと言ってもいいと思うんです」という有様だった。
ゆっくりと話すようになった嘉子
そうなると、どうしても家庭裁判所の裁判官も、多忙さから事務的な対応に陥りがちだが、嘉子は違った。
少年や保護者に対して、嘉子は自分の考えを押し付けることもなければ、「お前は悪いことをしたんだ」と説教することもなかった。まずは「なぜあなたがこういうことをしたのか」「どうしてこうなったのか」を、自分でしっかりと考えてもらうようにしていた。
そして、少年院に入ってもらう理由や、試験観察の意義を、嘉子は丁寧に説明。かつては早口だった嘉子も、少年審判にかかわってからは、ことさらゆっくりと、相手の様子を観ながら語りかけるようになったという。
なぜ、それだけ粘り強く対応できたのか。嘉子のなかには、社会情勢がどれだけ変化しようとも「家庭裁判所の原点」を忘れてはならないという思いがあった。講演で嘉子は次のように語っている。
「家庭裁判所において、家事部と少年部とを総合的に機能させることは、創立以来の課題であり、また実務家にとって常に新しい問題といえる」
少年とその家庭には密接な関係があり、どちらかが傷つくと必ず影響を与え合う。だからこそ両方を手当てする必要あるとして、こう続けた。
「この頃考えることは『家庭に光を少年に愛を』というスローガンを掲げて発足した家庭裁判所の原点に戻るべきだ」
昭和47(1972)年6月、嘉子は新潟家庭裁判所所長に就任。日本における初の女性裁判長の誕生となった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら