おでん屋もやった「銀座寿司幸」創業140年の壮絶 明治から続く寿司の名店が今も繁盛店な理由
初代は明治のうちに亡くなり、2代目があとを継ぐ。兄弟で店を切り盛りしていたが、長男もまた明治のうちに亡くなり、明治の終わりには弟(杉山氏の祖父にあたる)が経営を任されるように。第1次世界大戦が近づくと、景気がさらによくなり、大正ロマンと言われたように、粋な客が大勢来るようになった。
関東大震災→火事で一から出直しに
ところが、店が軌道に乗り始めた大正12年、関東大震災が起こる。仕込みの最中だったというが、食器は割れなかったというから、揺れはそれほどではなかったのかもしれない。
が、2~3時間もすると、リヤカーに家財道具を積んだ人たちが日本橋のほうから押し寄せてきた。空を見上げればどす黒い煙で覆われている。火事である。
2代目主人は当時、町会長をやっていたこともあり、ここにいては大変だと、皆を引き連れ、水の湧く愛宕山の上まで皆で逃げたそうだ。仕込み中だった寸胴いっぱいの煮鮑を持って走ったというのだから、無我夢中ぶりがうかがえる。
その晩は皆で鮑をかじりながら飢えをしのいだという。当時は、お金は銀行に預けるものではなく、タンス預金が普通。そのため、一切のお金が燃えてしまった。それでも命あってのものだね。火事の被害が大きかった浅草方面へ逃げていたら助からなかったはずだから。
その後、東京都が再開発を始めるのを待たずに銀座通連合会の前身である京新聯合会はただちに銀座復興策を打ち出した。移転するという消極策を禁じ、以前の場所で2階建てのバラックでもよしとし、早々の立て直しをはかった。
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