おでん屋もやった「銀座寿司幸」創業140年の壮絶 明治から続く寿司の名店が今も繁盛店な理由

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昭和26~27年頃は客の数に比して店の数が少なかったからどこの店も大繁盛だった。2代目も当時3軒の店をやっていた。一軒は銀座7丁目、現在資生堂がある隣の場所だった。が、一大決心をし、それらを全部親戚に譲り、「これからは銀座だ」と、数寄屋通りに移った。

現在、寿司幸が本店を構えるその場所は、銀座の中でも焼け残った場所で置き屋の通りだった。近くには国鉄があり、三井系の大きな会社もあり、いわゆる「社用族」の需要が高く、商談のために飲食店を使うことが日常的になっていった。商売は場所が大きく運命を左右するということがよくわかる。

カウンター商売ならではの「転換」の早さ

寿司屋の在り方も変わっていった。それまではせいぜい、刺身を切りつけて出す程度で、あとは寿司を握って出していればよかった。しかし、そのころからつまみに工夫を凝らすようになった。酒を出すために、つまみの種類をどんどん増やし、酒の種類も増やしていったのである。

カウンター商売の寿司店だからこそ、客との会話や、客同士の会話から彼らのニーズをいち早く察知することができたのだ。仲居さんが間に入る料理屋ではそうはいかない。

銀座はこのようにして、商談に華を咲かせるハレの場としてのイメージがついていった。当時、いわゆるクラブやバーが盛んに創業し、それを目当てに集まる人も増えていった。

だが、一軒目から飲みに行くわけにもいかないし、一人で飲みに行くのも気がひける。そんなときに寿司屋が恰好のクッション材になったというわけだ。「おい君、ちょっと寿司でもつまんでから飲みにいかないか」と。

大会社の重役となれば5時には早々に会社を出て、その後は接待が仕事だった。そんなわけで、「銀座寿司幸本店」は右肩上がりの昭和経済の中で、安定した不動の地位を築いていくのだった。

(後編に続く)

小松 宏子 フードジャーナリスト

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こまつ ひろこ / Hiroko Komatu

祖母が料理研究家の家庭に生まれ、幼い頃から料理に親しむ。雑誌や料理書を通して、日本の食文化を伝え残すことがライフワーク。近刊に『トップシェフが内緒で通う店150』(KADOKAWA)。

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