カダフィへの復讐は正しい選択だったのか--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト
「カダフィ大佐は自業自得だ。剣によって生き、剣によって死んだのだから」──。多くの人はきっとそう言うだろう
このリビアの独裁者は、反対勢力だけでなく、自分をいらだたせる者なら誰でも拷問にかけ、殺害することを喜んで認めていた。だからカダフィが暴力によって殺害されたことは至極当然のように思える。汚れた排水管に追い詰められた大佐は、血まみれの戦利品のように人目にさらされた後、集団リンチでめった打ちにされ、射殺された。場所は大佐の生まれ故郷シルトだった。これは原始的な正義であるが、大量虐殺者に対してほかにどうやって正義を果たすことができただろうか。
しかし、リンチ行為について非常に気掛かりなことがある。シルトとトリポリで群衆が歓声を上げて独裁者の死を喜んでいた一方で、大佐の屈辱的な死に方に疑問の声を上げた者もいた。リビア革命を後押ししてきた著名な仏知識人ベルナール=アンリ・レヴィ氏は、カダフィをリンチ行為で殺害したことによって、民衆の反乱の「本質的な道徳が汚された」との見方を示した。
確かに、反政府勢力は情け容赦なく残酷な面もあった。だが、「暴力的な革命はすべての場合においてそうだ」と反論する人もいるはずだ。
レヴィ氏にはもう一つ間違いがある。それは、道徳の汚れを問題にすること自体が的外れだということだ。復讐という形での乱暴な正義が抱える問題は、それが不道徳であるということではない。私たちの多くは「目には目を、歯には歯を」という旧約聖書の原則が持つ訴求力が理解できる。他人を苦しめた人にも苦しんでほしいし、同程度に苦しむことが望ましいと思っている。正義はほとんどいつでも復讐の要素を内に含んでいる。