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新1万円札の顔 「渋沢栄一」とは何者だったのか 明治から昭和、近代日本の勃興期を駆け抜けた

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7月3日、40年ぶりに1万円札の肖像が変わる。明治から昭和にかけ近代日本の産業勃興期を駆けた人物だ。

渋沢栄一の肖像が採用された新1万円札
裏は東京駅丸の内駅舎、5千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎(写真:毎日新聞社/アフロ)

特集「新1万円札の顔 渋沢栄一」の他の記事を読む

7月3日、40年ぶりに1万円札の肖像が変わる。明治から昭和にかけ、近代日本の経済勃興期を駆け抜けた人物だ。

【配信予定】7月2日(火)
銀行券150年 「突出した戦時期」「膨らむ現代」
渋沢栄一の孫が直面した“戦後インフレ”の帰結
7月3日(水)
99歳のひ孫が振り返る「渋沢栄一は欲のない人」
コモンズ投信会長「今こそ渋沢栄一の合本主義を」

91年間のその生涯において渋沢栄一は多彩な顔を持つ。

江戸後期の1840年、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれた。尊皇攘夷思想に傾倒するも、同志との高崎城乗っ取りや横浜外国人商館焼き討ちの計画を断念するや、一転して一橋慶喜(後の第15代将軍)に仕え、幕府使節団に加わってフランスへ。明治維新後は新政府の要請を受け、大蔵省で銀行制度などの策定に携わる。1873(明治6)年、33歳で官を辞すと、1931年に没するまで、民間の立場で公益を追求した。

第一国立銀行(現みずほ銀行)をはじめ数多くの会社の設立・経営に関わった。出資を募って経営者を配し、製紙、ガス、鉄道、海運、セメント、肥料、紡績など、近代化のピースとなる産業を育てた。「論語と算盤(そろばん)」という言葉に象徴されるように、企業経営の倫理を説く一方で、実業界の重鎮として政府に意見し、軍備拡張には異を唱えた。1909年、70歳になるのを機に多くの役職から退くと民間外交に努めた。生涯にわたって尽力したのが、経済発展の陰となった人々のための慈善事業だ。

金融システムの模索

多くの事績から1つ、「新1万円札の顔になって当然」といえる功績を挙げたい。それは近代のお金である銀行券の立案に携わり、今に通じる金融システムの構築に大きな役割を果たしたことだ。

1万円札は「日本銀行券」、つまり日本銀行が発行した債務証書だ。日銀が紙幣発行を始めたのは1885年。維新後、金融システムが確立するまでには紆余曲折があった。

江戸時代には、金貨、銀貨、銅銭に加え、藩札なども発行されていた。複数の貨幣が同時に流通する経済社会だったのだ。

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