マサチューセッツ工科大学(MIT)を出たのにリクルートはないだろうと言われました--織畠潤一 シーメンス・ジャパン代表取締役社長兼CEO(第1回)

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マサチューセッツ工科大学(MIT)を出たのにリクルートはないだろうと言われました--織畠潤一 シーメンス・ジャパン代表取締役社長兼CEO(第1回)

--リクルート、マッキンゼー・アンド・カンパニー(以下マッキンゼー)、ゼネラル・エレクトリック(以下GE)と、人材輩出企業として名高い企業ばかりが並ぶ経歴です。少年時代はイランやアメリカで過ごされ、マサチューセッツ工科大学(以下MIT)を卒業されています。まさに多国籍といった印象ですが、ご自身のアイデンティティの柱となっている文化についてお聞かせください。

日本の公立小学校を卒業し、中学1年のときに家庭の事情でイランへ渡りました。もちろん英語は話せなかった。イランでアメリカンスクールに入ってから一生懸命英語を勉強しました。

中学3年からはアメリカで、ジョージア州の公立高校を出ました。その頃にはもうすっかり“アメリカ人”だったと思います。家庭でも英語で会話していました。母親ともです。MITはアメリカ人として入学したようなものです。学部には日本人留学生もほとんどいませんでした。

2年に1回くらいは日本に里帰りをして実の父や親戚や友人に会っていましたが、大学1年生まで日本語ではコミュニケーションをほとんどしていませんでした。自分が日本人であるということをあまり意識していなかったと思います。

変化があったのは大学2年生の頃からです。MITの日本人会にも顔を出すようになり、だんだんと日本人であるという自我も目覚めていきました。それからはいわゆるバイカルチュラル、バイリンガル。外から見る日本というものが違う角度から見えてきましたね。

--MITで電気工学を学ばれて、なぜリクルートへ就職されたのですか。日本で働くにしてもほかにさまざまな技術系の会社はあったと思います。

当初は、大学を卒業したらメディカルスクールに行って医者になろうと思っていたのですが、有機化学をはじめとして、Pre−medの教科があまり面白くなかったのと、数学や電気工学の教科のほうが面白かった。

MITは工学部の学生に対してのインターン制度が充実していましたし、当時はレーガン大統領の時代だったので特に国防産業のオファーも多かった。

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