菅直人元首相の次期衆院選不出馬で浮かぶ思惑 「反維新」に執念、"大阪殴り込み"に含み
菅氏は1994年の社民連解散後、新党さきがけに入党して自社さ連立政権に参加し、1996年の第1次橋本龍太郎内閣で厚相に就任。その後、民主党結党に参画し、鳩山由紀夫氏(元首相)、小沢一郎氏(元自民党幹事長)との「トロイカ体制」を構築し。2009年のいわゆる「政権交代選挙」での旧民主党政権樹立の立役者の1人となり、同政権初代首相の鳩山氏の後継として約1年3カ月間、政権を率いた。
その中で、首相在任中の2010年6月の唐突な「消費税率10%」発言が直後の参院選での民主党敗北につながった。さらに翌2011年3月11日発生の東日本大震災による福島原発事故では、「首相としての“暴走”ともみえる対応」(首相経験者)が疑問や批判を招くなど、トップリーダーとしての「功罪」も問われ続けてきた。
こうした経緯も踏まえ、菅氏は5日の会見では、43年間の議員生活を振り返り、厚相時代の1996年に国の責任を認めて謝罪した薬害エイズ問題や、首相として対応に奔走した2011年の東日本大震災などについて、時折笑みを交えながら淡々とした口調で語った。
「妻とのあうんの呼吸」で引退を決断
まず会見冒頭で菅氏は「私も77歳になった。次期総選挙は立候補しないことを家族との間で決断した。(妻の)伸子との『だいたいこのあたりで』というあうんの呼吸で、このあたりがひとつの潮時なんだろうと思った」と伸子夫人の意向も踏まえた決断だったと明かした。
菅氏が会見の中でとくに時間を割いたのは、やはり国民的にも賛否が交錯した大震災に伴う東京電力福島第一原発事故への対応だった。まず、情報が錯綜する中、発生翌日に自らヘリコプターで現地入りしたことについては「対応を誤れば関東地方全部が住めなくなる。ぎりぎりの状況という危機感を覚えて対応にあたった」と説明。
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