LRTで注目、宇都宮が「北関東の大都市」になるまで 明治初期は不遇、鉄道の開業が飛躍の原動力に
宇都宮駅では、陶器・綿糸・タバコ・肥料・木材などの取扱量が多かった。なかでも石材の取扱量は突出していた。
宇都宮は大谷石の産地として知られ、大谷石は古くから建材として使われてきた。鉄道開業により石材の輸送が容易かつ迅速になったことは言うまでもないが、大谷石の評判を全国区へと押し上げたのが、アメリカの著名建築家であるフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルのライト館だった。
同館は大谷石を主な建材として用い、1923年に竣工。同年に関東大震災が発災したがライト館は倒壊せず、避難所として活用されている。
「東口」ができるまで
1945年、宇都宮駅は戦災により駅舎を焼失。終戦直後に応急処置ながらも復旧された。早期に復旧されたのは、言うまでもなく貨物が重要視されたからだが、進駐軍が日光の玄関口であることに着目してRTO(=Railway Transportation Office、鉄道司令部)を設置したことも大きな理由だろう。
そうした状況が奏功し、宇都宮は早くから鉄道が復旧。戦災復興も他都市より早く進んだ。そして、それは駅東口の宅地化を促していく。それまで宇都宮駅の東側は何もない駅裏で、ゆえに東口もなかったが、住民から駅東口の開設運動が起きるまでに宅地化が進んだ。
この際は東口の開設は実現しなかったが、宇都宮市は駅東側に工業団地の造成を検討。市が工業団地の造成を進めた理由は、東京では大規模な工場を建設する用地がなく、多くの企業が業務拡張のための用地を探していたからだ。近隣の自治体は東京の工場移転地として手を挙げ、宇都宮市もそれに倣った。
市は1960年に宇都宮工業団地の用地買収と造成に着手し、翌年から分譲を開始。同工業団地には松下電器産業(現・パナソニック)や三菱製鋼といった大企業のほか、日本信号といった鉄道と関係が深い企業も進出した。宇都宮工業団地は1970年に分譲を完了するが、それまでに66社を誘致している。
宇都宮工業団地に続いて、1973年からは清原工業団地の造成を開始。こうして、宇都宮は工業都市としての趣を強くし、これらの工業団地も宇都宮駅東側の宅地化を加速させた。
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