なぜ戸田市は「教育総合データベース」を作り始めたのか?
約70にも上る産官学連携の「戸田市SEEP(Subject、EdTech、EBPM、PBL)プロジェクト」など、先進的な取り組みを次々と推進してきた埼玉県戸田市教育委員会。教育長の戸ヶ﨑勤氏は、中央教育審議会をはじめさまざまな政府委員も務める、教育界のキーパーソンの一人である。
そんな戸ヶ﨑氏が今、力を入れていることの1つが、「教育総合データベース」の構築だ。その構想のきっかけについて戸ヶ﨑氏は、こう語る。
「中央教育審議会の第3期(2018~22年度)教育振興基本計画の会議で、EBPM(Evidence Based Policy Making:エビデンスに基づく政策立案)というキーワードが出てきた際、これは自治体でもやらなければ駄目だと思いました。教育は経験と勘と気合の“3K”で続いてきましたが、深刻な教員不足の中、こうした職人型のスキル継承では、学校は持続不可能です。先生によって当たり外れがあっては、子どもたちがかわいそうです。若手がみんな一定のスキルを身に付けられるようにするためにも、教育の現場は黒魔術ではなく科学的であるべきで、教育データが根拠として重要になると考えました」
警察の捜査や医師の診断などでも客観的データやサイエンスが活用されているのに、教育の世界にはいまだにそういった視点がないことも疑問に感じていた。教師の経験や勘、指導技術を言語化・可視化・定量化し、暗黙知を共有したり形式知へ転換したりすることで、若手に効率的・効果的に伝承したい――そんな思いから、EBPMの推進をスタートさせたという。
現在は、EBPMからエビデンスを“参照”して政策・実践する「EIPP(Evidence Informed Policy and Practice)」の視点にシフトし、量的研究と質的研究の双方を重視してさまざまな取り組みを行っている。例えばこれまで、リーディングスキルの視点からの授業改善や、児童生徒の学力を伸ばしている教師へのインタビューを基にした指導用ルーブリックの作成などの研究を行ってきた。
22年4月からは、不登校児童の学びを支援する校内サポートルーム「ぱれっとルーム」を市内3校に設置。「これにより登校できるようになったケースが複数見られたほか、利用者やその保護者、導入校教員のアンケート結果でも高評価だったため、急きょ補正予算を組み、残りの市内すべての小学校にぱれっとルームを設置しました」と、戸ヶ﨑氏は言う。
ぱれっとルームでは、企業との連携により、心の健康観察アプリを児童のGIGA端末に入れて毎日の気分や体調を記録している。今後はさらなる支援のため、専門家による不登校対策ラボラトリー「ぱれっとラボ」が、その記録データに基づき効果検証を詳細に行っていく考えだ。
教育データの利活用は「プッシュ型支援」の一助となる
EIPPを推進すべく、2019年には教委の中に教育政策シンクタンクも発足させている。市役所の関係部署、大学、企業などが連携しており、アドバイザリーボードには、以下のような著名な専門家が名を連ねている。
アドバイザリーボードはこれまで3回実施しているが、22年7月の2回目からはZoomで公開し、200名以上が視聴するなど注目を集めている。
このアドバイザリーボードで今、主な検討テーマとなっているのが、「教育総合データベース」構想だ。これはデジタル庁の「こどもに関する各種データの連携による支援実証事業」に採択されたもので、教委や市長部局などに分散している子どもに関わるデータについて、教育分野を軸に「教育総合データベース」を整備することを目的としている。
「データは冷たい、評価の材料に使われる、情報漏洩が心配など、いまだに皆さんもデータの利活用には不安感や抵抗感がありますよね。しかし、何とかそこを打破し、『誰もが、いつでもどこからでも、誰とでも、自分らしく学べる社会』の実現に向け、ユースケースを創出する必要があると考えています」
戸ヶ﨑氏がそう語る背景には、さまざまな教育課題に対する危機感がある。これまで日本の教育は、できないことをできるようにすることを最優先し、形式的平等主義に陥っていたと戸ヶ﨑氏は指摘し、次のように続ける。
「今後は子どもたちのよさを徹底して伸ばすことを最優先すべき。そのためにも、全員の足並みをそろえるのではなく、まずは動き出し、困っている子にはプッシュ型で支援をしていく。そんな公正主義に立つことで、学力、いじめ、不登校、発達障害などさまざまな理由で取り残されている子どもを救っていくことができるのではないかと考えています。教育データの利活用は、まさにそのプッシュ型の支援の一助になると思うのです」
同市は16年と早い時期から、ICTの積極的活用や1人1台端末の実現に向けた環境整備を始めており、GIGAスクール構想の第2フェーズという側面からも、教育データの利活用は重要なテーマとなっている。
全国の自治体も取り組めるよう、ノウハウをオープン化
こうした背景から、「授業を科学する」「生徒指導を科学する」「学級・学校経営を科学する」という3つの方向性で教育データの利活用を進めているが、現在とくに力を入れているのが、「生徒指導を科学する」の部分だ。具体的には、不登校児童生徒の支援を目指し、主に前述のぱれっとラボの調査・研究・評価と、教育総合データベース活用の試行に取り組んでいる。
「2021年度の文部科学省調査でも不登校児童生徒が過去最多となりましたが、本市も例外ではありません。個人情報の保護措置を講じたうえで各データを連携させ、子どもたちのSOSを早期発見し、プッシュ型の支援を行いたい。教師も保護者も気づいていないけれど、データはアラートを発している。そんな先手の対応が、教育総合データベースの構築でできるのではないかと考えています」(戸ヶ﨑氏)
同市教委では現在、長期欠席に関する調査や、子どもの出欠・遅刻・早退の状況、いじめなどの記録、授業や学校生活に関するアンケート調査の回答などの各種データを基に傾向を分析することで、不登校のリスクを早期発見し、未然防止につなげることができないか試行錯誤している。
しかしデータベースの構築は、そう簡単ではない。データ解析を行う同市教委教育政策室政策担当指導主事の山本典明氏は、こう明かす。
「まず子どものデータは各所でバラバラに保存されており、デジタル化されていない場合も多い。分野・組織・紙という3つの壁が立ちはだかっていて大変苦労しましたが、何とかこの1年でデータの整理は終え、データベースに必要な機能の実装などに取りかかっているところです」
扱うデータについても検討を重ねた。当初は社会経済的地位(Socio-economic Status/以下、SES)に関するデータの利用も考えていたが、検証をまったく進めていない状況で利用するにはセンシティブな情報であることを踏まえ、SES以外で関連のありそうなデータを使うことにした。
「例えば、センシティブな情報も『生活保護や就学援助の受給世帯率』『特別支援教育対象世帯の割合』『日本語指導を必要とする児童生徒割合』など、個人が特定されない形での利用は可能です。実際、こうしたデータを連携し、困難な状況でも学力や非認知能力を向上させている学校に共通する特徴も分析を進めており、学校経営と指導改善を目的とした各学校のカルテを作成したいと思っています」(山本氏)
ただ、不登校に関してはサンプル数が少ないなど、現在対象としているデータだけでは分析が難しいなどの課題も見えてきた。デジタル庁の事業としては22年度末で終了となるが、そこまでの課題と分析結果を踏まえ、23年度以降も教育総合データベースの運用と分析に取り組む方針だという。
「将来的には、現場の自発的な取り組みとの相乗効果により、教育総合データベースが学校で十分に活用されていくよう整備していきたいと考えています」(山本氏)
実はすでに今年度、学校発の事例が出てきた。同市立喜沢小学校から、教育データをケース会議などに活用したいとの申し出があり、同市教委が、児童のデータを一元管理して参照できる校内システムを整えたという。
「こうした自発的な動きが学校側から出てきたのは画期的なこと。同小学校は、企業と連携して米国の学習指導モデルを活用し始めたことを機に、教育データの利活用が必要だと考えるようになったそうです。産官学との連携を推進し、『凡庸な90点の取り組みよりも、60点でもいいから夢のある挑戦を』と伝え続けてきたかいがありました。こうした学校の主体性が、今後の教育総合データベース活用のカギになると思います」(戸ヶ﨑氏)
教育データの利活用に取り組む自治体はほかにもあるが、顕著な成功事例はまだない。同市の教育総合データベースの構築も、緒に就いたばかりだ。戸ヶ﨑氏は現状を「獣道を傷だらけで歩んでいる」と表現するが、少しずつでも前進していくことが何より重要だと語る。なぜなら、教育データの利活用を全国に広げたいと考えているからだ。
「データの標準化やデータフォーマットのオープン化を進めることで、ほかの自治体でも導入しやすい基盤づくりを目指しています。すでにガイドラインやアドバイザリーボードを公開していますが、本市のプロセスをどんどん参考にしてほしいのです。複数の自治体で取り組んだほうがより早く成果が出るはずなので、われわれも仲間が欲しい。組織体制もネットワーク環境も自治体ごとに違うので難しく、ここは大きな課題ですが、今後もノウハウを共有していきます」(戸ヶ﨑氏)
(文:國貞文隆、編集部 佐藤ちひろ、注記のない写真:風間仁一郎撮影)