2021年度から、教育 ICT 基盤をクラウドサービス(※1)に全面移行した埼玉県鴻巣市。現在、市内の全小中学校(小学校19校、中学校8校)で、児童生徒と教職員が1人1台の端末を活用している。
※1 情報システムをネットワーク経由で利用できるサービス。保守・運用は外部が担い、利用内容に応じて料金を支払うため低コスト。場所を選ばず利用できるなどのメリットがある
同市は、社会が変革期にあることを踏まえ、18年から教育ICT環境の刷新に向け動き出した。オンプレミス(※2)サーバーで運用している教育ICT基盤の機器類が20年8月にリース期限を迎えることを見据えての決断だった。文科省がGIGAスクール構想を打ち出した19年12月よりも前の話であり、先進的な取り組みだったといえる。
※2 情報システムを組織内部で保有・運用する形態。システムをカスタマイズしやすく、セキュリティーも高いが、コストがかかる
同年9月には「鴻巣市学校教育情報化推進計画」を策定。主に、先端技術を活用したフルクラウド環境の整備、オンライン教材を活用した個別最適な学びや協働的な学びの実現、教員の働き方改革の観点からの業務改善を柱に掲げた。
「子どもたちがICT機器を文房具のように自由に使えるようにするのと同時に、先生たちが効率的に業務を行うためにもフルクラウド化は必要でした」と、同市教育委員会教育部部長の齊藤隆志氏は説明する。
検討を始めた当時の文科省の「教育情報セキュリティポリシーに関するガイドライン」では、セキュリティーの観点から校務系・校務外部系・学習系の情報にアクセスするネットワークが別々に分かれている「3層分離」が望ましいとされていた。そのため、同市もパソコンを校務系と授業用で使い分けていた。この不便を解消して教員が1人1台のパソコンで業務ができるようにするためにも、フルクラウド化を決めたのだ。
フルクラウド化で1人1台端末による「テレワーク」も可能に
計画を実現できたのは、「SINET(学術情報ネットワーク)に直結するクラウドサービスを利用したことが大きい」と、齊藤氏は言う。SINETは国立情報学研究所が、大学や研究機関などの学術情報基盤として構築・運用している情報通信ネットワークで、基本的に自治体などは利用できない。SINETと接続するほかの教育委員会もあるが、それは文科省の実証研究事業か、大学との共同研究によるものだ。同市は、大学との共同研究によりSINETを利用している。
SINETの活用を推した同市教育委員会教育総務課主任の新井亮裕氏は、「フルクラウド化には強固なセキュリティーの担保が不可欠。セキュアにクラウドを利用しやすい点がSINETの優れているところです」と話す。
具体的には、SINETに直結するクラウドサービス(Microsoft Azure)を活用し、統合型校務支援システム、勤怠管理システム、採点支援システムなどを構築。「クラウド環境にふさわしいセキュリティー技術としてゼロトラスト(※3)ネットワークも実現しています」と新井氏は説明する。
※3 「すべてを信頼しない」を前提に対策するセキュリティーの考え方
インターネット接続もSINET経由で行うため、市独自の閉域網を新たに構築。各拠点からのアクセスはいったんこの閉域網に集約し、そこからSINETに接続する仕組みにした。
授業で利用する学習コンテンツはすべてSaaS(※4)に切り替え、子どもたちがWi-Fi経由でアクセスし、家でもドリル学習をしたり百科事典を読んだりできるようにした。
※4 Software as a Service。ベンダーが提供するクラウドサーバーにあるソフトウェアを、インターネット経由で利用できるサービス
教職員には閉域網にアクセスできる専用SIMを搭載したモバイルルーターを1人1台配布。これで各自のパソコンでテレワークが可能になり、個人情報を含む成績処理などの作業も自宅でできるようになった。
80時間以上の超過勤務者がゼロになった訳
「子どもも先生も、パソコンを文房具のように使う基盤が整ったと思います」と、新井氏。では実際、教育現場の評価はどうか。試験運用にも参加した鴻巣市立鴻巣中央小学校校長の清水励氏は、こう語る。
「子どもたちが、自分の考えをいろんな人に伝えたり、逆にほかの人の考えを知ったりすることができるツールを得られたことで、授業に取り組む姿勢がより積極的になったと感じています。休み時間に折り紙の折り方を動画で見ながら友達と作るなど、授業以外でも知りたいことがあればすぐに調べていますね。今後はパソコンを活用していわゆる反転学習も取り入れます。家庭学習では予習や意見のまとめをやってきてもらい、授業は学び合いやアウトプットの時間にできたらと思います」
教員にも変化が表れた。パソコンが苦手なベテラン教員には、若手が使い方を教えている。「ベテラン教員は授業力があるので、使い方がわかるとすばらしい活用の仕方をする」(清水氏)そうで、今度はそのノウハウを若手の教員に教えるという好循環が生まれてきたという。
また、同校では21年9月以降、80時間以上の超過勤務者がゼロになった。
「Microsoft Teamsによるチャット連絡の定着やペーパーレス化の進展などで業務が効率化し、ミスも減りました。さらに月途中での超過勤務時間の確認が新たな勤怠管理システムで可能になったことで、効率よく仕事を終わらせて早く帰ろうという意識改革が促進された。こうした変化の結果であると思っています」(清水氏)
同市では、持ち帰りの仕事については厳密な時間管理をしていないが、管理職が作業内容を把握・管理しているという。清水氏はフルクラウド化後もこの運用で現状、「負担が増えたとは感じていない」と言う。
「むしろ、各自のパソコンで好きな時に学校内と同じ環境で作業でき、とても楽になりました。これまで自宅で作業するときは、暗号化したUSBメモリーを持ち出していたためできることが限られていましたが、今は自分のパソコンごと持ち出せるようになりましたから。教員は家でちょっと資料を見ておくことで翌日の仕事がスムーズになることも多いので、助かっているようです」
テレワーク環境を整えた意図について、新井氏は次のように語る。
「抜本的に働き方改革をしなければいけないという大前提はありますが、本市だけでも今すぐにできることとして、先生方のワーク・ライフ・バランスの向上を目指し、この環境を整えました。実際、働きやすい環境になって助かっているという声は、多くの教職員からも届いています」
例えば、育児や介護など家庭の事情で定時に帰らなければいけない、小1時間で終わる仕事のために休日に往復2時間かけて学校に行かなければならないといったときに、自宅からクラウド環境にアクセスして仕事ができるのは便利だと好評のようだ。
また、校務支援システム刷新による勤務整理簿・勤怠管理・学校日誌・文書決済などの電子化やデータ連携機能の追加、中学校での採点支援システムの導入などにより、劇的に負担が減ったという声もあるという。
「市全体としては業務時間の削減効果が出始めてきた状況ですが、今回整備した環境を使いこなすことでさらなる効果が出てくると思っています」と、新井氏は話す。
フルクラウド環境を生かして教育データの活用も
今回の教育ICT基盤の刷新は、とくに技術面で前例のない取り組みだった。「ベンダーに情報提供依頼書を提出していただいたり、自分たちで技術的なことを学び仕様書を書いたり、かなりいろいろなことを調べて進めましたね」と新井氏は苦労した点を語る。齊藤氏は、計画を実現できた要因について次のように話す。
「原口和久市長の強い思いと、連携ですね。教育部の教育総務課、学務課、学校支援課が密に連携し、タイトなスケジュールの中でベンダーや学校の先生方と議論を重ねました。本市の財政部門や企画部門に支援してもらえたことも大きいです」
清水氏は、「今の時代は、すべての学校が新しいことに挑戦していく必要があると思います。また、今回は新井さんが単に技術のことだけではなく、子どもたちにどういう力をつけさせてあげたいかというロマンや目的も語れる人だったからこそ私たちもより前向きになれたところがあります」と、学校のあり方やキーパーソンの重要性を指摘する。
しかし、フルクラウド化は手段であって目的ではないと、新井氏は強調する。教育ICT基盤の整備を考える自治体にはこう助言する。
「まずは実現したいことを明確にすること。その手段がフルクラウド化ならば、メリットや回線の問題、ゼロトラストの考え方などもしっかり理解すること。そうでないと、ベンダーと一緒によいクラウド環境を構築することもトラブル時の交渉などもできません」
文科省はEBPM(※5)を推進しており、同市も多くの校務や学習活動がデジタルシフトすることで、GIGAスクール構想の本丸である「教育データの活用」が見えてくる。
※5 Evidence Based Policy Making、客観的な根拠を重視した教育
「優れた教職員の経験や勘、指導技術を言語化・可視化・定量化し、そこにOODA(※6)ループを活用すれば、変化に柔軟かつ迅速な意思決定が行え、教育の質の向上に寄与できます。これこそがフルクラウド化を整備したメリットで、本市の強みになると考えており、今後は科学的な教育を推し進められたらと思います」(新井氏)
※6 Observe(観察)、Orient(状況判断)、Decide(意思決定)、Act(行動)
課題は、デジタル教科書だという。文科省は24年度に本格導入を目指しているが、利活用の詳細は議論中だ。日常的なトラフィックが増加する中でデジタル教科書が導入された場合、「回線の問題が出てくる可能性は高い。その際、設備投資が追いつかない懸念があります」と、齊藤氏。「今後はクラウド環境ではなく、エッジコンピューティング(※7)を活用する環境が必要になるかもしれない」と、新井氏も先を読む。
※7 ユーザーや端末の近くにサーバーを分散配置し、高速かつリアルタイムにデータ処理を行う技術
待ったなしの教育のICT化。自治体ごとにその計画は変わるだろうが、同市の事例に見る明確なビジョンや変化への柔軟性、垣根を越えた連携は、重要なポイントになるに違いない。
(文:田中弘美、写真:鴻巣市教育委員会提供)