SNSの「ウケる物語推し」が招く「怒り消費」依存症 旧石器時代と同じセンセーショナルな悪者探し
そういったストーリーテリングにのっとって、SNSでは毎日、だれかがだれかを、あるいはなにかの表現を告発しています。SNSという「情動のパチンコ屋」に群れ集うユーザーは、報酬系を直撃する「怒り消費」の依存症となっています。
ゴットシャルも指摘するとおり、怒り消費はしばしば、無関係の多くの人を巻きこんで、暴動による破壊行為や、集団によるヒステリックな暴言に行き着きました。自殺者が出たこともあります。
この場面では「人間性」vs.「獣性」という対立軸は存在しません。
もちろん人間は、言語とストーリーを使うという点で、他の動物とは違っています。しかしそれはせいぜい、蜘蛛が尻から糸を出すから他の動物とは違っている、程度の話なのです。
これは私個人の観測ですが、人間の「ストーリー依存」に無自覚で、自身が獣性むき出しの「情動のパチンコ」にハマっていることに気づかないケースが、大学教授やメディア関係者といった高学歴な人々にも数多く存在します。
知的なはずの人たちが、データを無視した議論をしたり、法的手続をすっ飛ばしてキャンセルカルチャーという私刑を正当化したりするのは驚きです。
しかし「自分は高学歴で知的で批判精神に富んでいる」「自分は愚かな大衆を啓蒙する側だ」という自己像を持ってしまうと、自分が先述の道徳主義的な「悪者探し」ストーリーの主役(正義のヒーロー)になりたがっているのではないか、という自己省察が、むしろ利かなくなるのかもしれません。
物語を憎んで人を憎まず
では私たちはどうしたらいいのでしょうか?
ゴットシャルは言います。〈物語を憎み、抵抗せよ〉(266頁)と。
物語を憎み、これに抵抗する、とは、必ずしもフィクションのコンテンツを排除することではないようです。
むしろ「事実」の顔をして私たちの解釈をハックしてくる情報の背後にある「ウケるストーリー構造」に自覚的であれ、ということです。
ゴットシャルは絶妙な譬えで言います。自分の口臭に自覚的になるのと同じように、自分の頭のなかにある物語を疑い、その〈臭いをかいで、誇張、捏造、不合理その他のナンセンスがないか確かめなければならない〉(263頁)と。
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