「中央線特急」なぜ東京でなく新宿発ばかりなのか 各停も東京駅に入らない、実は「不思議」な路線
前項でも触れたが、中央線の各駅停車は「中央・総武緩行線」として、一体となった運用がなされている。総武本線は、東京駅起点の快速線と、御茶ノ水駅起点の緩行線のふたつがある。
まずは、なぜ総武本線が二股になったのかを説明しよう。総武本線の東京方ターミナルは、もともとは両国橋駅(現在の両国駅)だった。都心に向かう人は、ここから隅田川を渡る東京市電を使用していたが、この市電はひどく混雑していた。
関東大震災からの復興を機に、両国から都心へと向かう路線を設けて中央本線に乗り入れる計画が出された。その計画内において両国―御茶ノ水間は高架で建設されるものとしていた。
いっぽう、千葉方面に向かう長距離列車は両国駅発着を続けた。1972(昭和47)年7月に錦糸町駅から東京駅まで総武本線が乗り入れ、あわせて錦糸町から津田沼までが複々線化となり、現在の二股のかたちになる。中央線と縁が深いのは、二股の片方だ。
かつては東京―中野間の各停もあった
両国駅には、いまなおイベント等で使用される地上ホームが残っている。地上駅ホームは、以前は現在よりも多く設けられており、貨物駅(1970〈昭和45〉年廃止)も存在していた。貨物駅であった土地は、現在の江戸東京博物館や両国国技館の場所となっている。
この両国から御茶ノ水へと乗り入れる路線とあわせて、御茶ノ水から中野までの複々線化が行なわれた。高架線は1932(昭和7)年7月に、複々線は1933(昭和8)年9月に開業した。
相互乗り入れが開始されると、御茶ノ水―中野間で総武本線との直通列車が運行されるようになった。ただこのころは、総武本線からの列車は飯田橋折り返し、中央本線からの列車は両国折り返しのものも多かった。平日昼間には東京〜中野間の各駅停車も運行されていた。
戦後になって利用客が増加し、1959(昭和34)年11月に総武本線の列車の多くが中野まで直通するようになる。
このころから、中央快速線と緩行線の役割が分担されていった。複々線の快速線は、貨物の飯田町駅への出入りや、新宿からの普通列車などに利用されていたものの、快速線での中央線列車が多くなっていったのだ。
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