出井伸之氏が振り返ったソニーの挑戦と苦悩 脱エレキ路線「まかれた種を開花させたのは私」

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10年にわたってソニーのトップにいた出井氏。絶頂と敗北をいずれも経験した同氏は、自らの歩みをどう振り返っていたのか。

出井氏とソニーが歩んだ平成史を振り返る(撮影:今井康一)
ソニー(現ソニーグループ) 元会長兼グループCEOの出井伸之氏が2022年6月2日に亡くなった。84歳だった。
『週刊東洋経済』では2018年に、連載「平成経済の証言」の中で出井氏の歩んだ平成時代を振り返るインタビューを行った。「現役世代に迷惑をかけたくないから、今のソニーについては一切言及しない」というのが取材に応じる条件だった。
語られたのは、まだ若手だったビル・ゲイツとの交友などから着想したソニーのデジタル改革や、「ものづくりを軽視している」との批判にさらされた出井体制の終盤の思惑など、挑戦と苦悩の半生だった。当時の取材は3時間近くに及んだ。
当時の4回の連載を、改めて振り返ってみたい。

第1回
社長就任前に「アップル買収」を提案

宣伝などの担当役員をしていた1993年、出井氏はアメリカ視察で衝撃を受けた。アル・ゴア副大統領のもとで全米規模でのネットワーク構想が進んでいたからだ。

1980年代から交流があったマイクロソフト創業者、ビル・ゲイツ氏の存在にも刺激を受け、出井氏は経営陣に「ソニーもデジタルを柱の1つに据える必要がある」としたレポートを提出。その中では、アップルの買収も提案していた。>>インタビューはこちら

第2回
日本企業で初めて「執行役員制」を導入

1997年、ソニーは日本企業で初めて取締役と執行役員を分ける「執行役員制」を導入した。先進的なコーポレートガバナンスは、デジタル事業と並行して出井氏が推し進めた改革の柱の1つだった。

ほかにも、出井氏が「印象深い」と挙げた取り組みは財務体質の改善。そのために注目したのが100カ所近くあった工場だった。>>インタビューはこちら

第3回
「プラットフォーマー」になれなかった

2003年、いわゆる「ソニーショック」を経験する。当時の世界ではモノから情報への価値の大転換が起こり、利用者から集めたビッグデータを武器とする巨大なプラットフォーマーが立ち現れつつあった。

出井氏の思い描くデジタル化が道半ばの中、ほかの電機メーカーと同様に液晶テレビの失敗に苦しむが、完全な自前生産ではなくサムスンと液晶パネルの合弁会社を作ったことで「比較的軽症で済んだ」と振り返った。>>インタビューはこちら

第4回
盛田昭夫氏の「まいた種」を開花させた

「社長就任から6年ほどで身を引こうと思っていた」という出井氏。結果的には、1995年の社長就任から会長を退任したのは2005年のことだった。在任時の後半、内外から「ものづくりを軽視している」と批判を浴びることになるが、その指摘を出井氏は明確に否定した。

強調したのは、盛田昭夫氏をはじめとする創業経営の時代に「エレクトロニクス事業だけでは生き残れない」という危機感からまかれた種を開花させた自負だった。>>インタビューはこちら

印南 志帆 東洋経済 記者

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いんなみ しほ / Shiho Innami

早稲田大学大学院卒業後、東洋経済新報社に入社。流通・小売業界、総合電機業界などの担当記者、「東洋経済オンライン」編集部などを経て、現在は『週刊東洋経済』の巻頭特集を担当。過去に手がけた特集に「半導体 止まらぬ熱狂」「女性を伸ばす会社 潰す会社」「製薬 サバイバル」などがある。私生活では平安時代の歴史が好き。1児の親。

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