ロシア空軍が弱いのは米軍の30年前レベルだから 物量では勝るものの、精度や作戦が時代遅れ
その答えを探るため、ウクライナ南部の黒海に臨む港湾都市オデーサ(オデッサ)から60キロ程のザトカの橋を見てみよう。ザトカは、ロシアの河川を除いてヨーロッパで3番目に長いドニエストル川の河口に細長く突き出した2つの陸地にまたがる、のどかなビーチリゾートだ。
この2つの陸地をつなぐ橋は、オデーサ港とブジャク地域を結ぶ橋でもある。ブジャク地域は、15世紀半ばからオスマントルコの支配下にあり、1812年にロシア領となったベッサラビア地方の南部に当たる地域だ。現在はウクライナ領で、人口は60万人。ウクライナ南部からルーマニアに向かう玄関口となっているが、ルーマニアに入るためにはザトカの橋を渡らねばならない。50キロ程北にも国境を越える橋があるが、モルドバからの独立を主張しているトランスニストリア地域(自称「沿ドニエストル共和国」)に通じる橋であるため、検問が厳しく、治安上も問題があって、輸送には不向きだ。
ドニエストル河口の2つの細長い陸地をつなぐザトカの橋は長さ150メートル余り。鉄道の線路と道路が敷設されている鉄の跳ね橋で、旧ソ連時代の1955年に建設された巨大な構造物である。ドニエストル川と黒海を行き来する船を通すために1日に5回、左右の橋桁が垂直に上昇する。
8回にわたる攻撃
ロシア軍が最初にこの橋に照準を定めたのは、侵攻開始から8日目の3月3日で、近くの軍事施設に対する攻撃だった。ウクライナにおいてロシア軍機によるクラスター爆弾の投下が報告されたのはこのときが初めてで、ウクライナは投下したロシア軍機を撃墜し、パイロットはパラシュートで脱出したと発表した。
その12日後の3月15日、ロシア軍は再びザトカを狙い、今度は艦砲射撃でザトカと近くの3つの沿岸の町を攻撃した。
オデーサの南60キロのザトカが2度にわたって攻撃されたのは、大規模な水陸両用作戦の準備ではないかと、多くの西側コメンテーターが指摘した。だが、実際にはロシアの攻撃目的はもっと単純なものだった。かつてはウクライナの貿易の7割を占めていた黒海に臨む複数の港湾が使えなくなった今、ルーマニアに通じるこの橋経由のルートは西側の物資をウクライナに運ぶ重要な輸送路になっていた。それを破壊しようとしたのだ。
侵攻開始から62日目の4月26日、ロシアは午後12時35分に再びザトカに舞い戻り、今度は巡航ミサイル3発を発射して橋そのものを攻撃した。アメリカ諜報当局によれば、このうち1発は技術的な故障により着水。2発目は標的を外し、3発目が橋の東端に着弾し、小規模な被害をもたらした。
翌27日の午前6時45分、ロシア軍が再び巡航ミサイルで橋を攻撃し、オデーサ軍政部のセルゲイ・ブラチュク報道官が、橋が破壊されたことを明らかにした。ロシア政府はこの攻撃について、西側諸国からウクライナへの兵器輸送に使われている「鉄道の関連施設や飛行場」を破壊する「作戦」の一環だと主張した。だがこの翌日、交通網は復旧した。
5月3日、ロシア軍はまたもやザトカの橋に向けて3発の巡航ミサイルを発射。ブラチュクによれば、「橋は完全に破壊され、使用できない状態になった」と述べた。この直前にロシアは、オデーサ地域を含むウクライナ南部全域の奪取を目指すと宣言していた。さらに1週間後の5月10日にも、ロシアはザトカを攻撃した。ウクライナ軍南部作戦司令部は、「敵はドニエストルの河口にかかるすでに損傷している橋を、繰り返し攻撃し続けている」と述べた。
ロシア軍は、ザトカの橋を8回にわたって攻撃した(固定標的に対する攻撃としては最も多い部類に入る)。攻撃が打ち切られた頃には、この橋を標的としたそもそもの理由は忘れ去られていた。