報道統制が厳しい中国で、世界を震撼させるスクープを連発してきた経済雑誌「財新週刊」。今回も財新の記者たちは武漢をはじめ中国各地で徹底的な取材を行っている。その成果は欧米のメディアでもたびたび引用されている。ここにご紹介するのは、「財新週刊」に掲載された渾身の特集記事だ。
いま中国で何が起きているのか。医療従事者の苦悩、患者の悲痛、そして政策当局者の蹉跌……描かれるのはあくまでもファクト。新型肺炎が中国の人々にもたらした現実と、そこから脱出するための奮闘ぶりが、抑制された筆致によってあらわにされる。これは中国の人々の苦闘を人類の教訓とするための記録である。
1月23日午前2時、武漢市政府が公共交通機関の運行停止による事実上の「都市封鎖令」を発表したとき、張奇はホテルの一室でまだ眠らずにスマートフォンを見つめていた。
北京で暮らす張は、友人を訪ねるため1月20日に高速鉄道に乗って武漢にやってきた。このとき、メディアはすでに新型コロナウイルスによる肺炎が武漢で急増していることを報じていたが、張はほとんど気に留めていなかった。彼が武漢に着いた日も、街角に緊張した雰囲気はまったくなく、通行人の少なくとも半数はマスクを着けていなかった。
ところが1月20日夜、最高指導者の習近平国家主席が「新型肺炎の感染拡大を断固として抑えよ」という重要指示を発令。さらに感染症研究の第一人者で中国政府の専門家チームのトップを務める鍾南山が、中国中央テレビのインタビューで「ヒトからヒトへの感染が確認された」と明言するや、人々の不安や恐怖心に一挙に火がついた。
その火に油を注いだのが、23日未明の都市封鎖令だ。泡を食った張は大急ぎで荷物をまとめ、(高速鉄道のターミナルである)漢口駅に向かった。同日午前10時をもって駅が封鎖される前に、武漢を脱出するためだ。
「自分はただの旅行客。こんな危ない街に閉じ込められるのはまっぴらご免だ」。漢口駅の切符売り場で、張は財新記者にそう語った。
同じ頃、漢口駅から5キロメートルほど離れた武漢協和病院では、感染症科の主任医師の趙雷が仮眠をとっていた。彼はもう半月以上1日も休みを取っていなかった。同病院では2019年12月下旬から発熱を訴える患者の来院が急増し、ピーク時には1日800~900人に達していたのだ。
感染症科は院内に5階建ての専用病棟を持つが、その病室は肝炎など接触感染で伝播する感染症の隔離しか想定しておらず、飛沫感染で伝播する呼吸器感染症には無防備だった。そこで趙らは12月31日、病棟の1階を丸ごと呼吸器感染症専用の隔離区画に転用した。
ところが1階の24ベッドはあっという間に埋まり、続いて2階、さらに3階と4階も転用したが患者の急増に追いつかない。感染症科の30人弱の医師だけでは到底人手が足りず、協和病院は総動員体制を敷いた。呼吸器科や救急科の内科医が交替で応援に当たるとともに、看護師は所属科にかかわらず全院でローテーションが組まれた。
そんななか、1月11日に協和病院神経外科の入院患者が手術後に発熱し、容体が急速に悪化。CT検査の画像には左右の肺にすりガラスのような陰影が認められた。さらに、この患者の病室を担当する看護師も発熱し、14人の医療関係者に次々に伝播。1月15日、この患者は感染症科の隔離区画の病室に移送された。
「われわれ感染症の専門医にとって、都市の封鎖は意外ではない。例えば14世紀の欧州での黒死病でも、1910年の中国東北部での肺ペストでも、汚染地域の隔離が重要な役割を果たした」。趙はそう解説する。
とはいえ、常住人口が1000万人を超える武漢のような巨大都市を隔離したケースは、中国はもちろん世界史にも前例がない。新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、封鎖後の武漢の都市運営は厳しい試練にさらされている。
武漢市政府は1月23日に武漢を出る交通ルートをすべて遮断し、26日には市内の公共交通機関も停止した。新型ウイルスの市外への持ち出しと市内での拡散を防ぐためだが、それ以前の悠長で鈍感とさえいえる対応から、いきなり戦時体制に移行したのが実態だ。
1月31日24時までに、中国全土で新型コロナウイルスによる肺炎との診断が確定した患者数は1万1791人、死亡者数は259人。そのうち武漢市の患者数は3215人、死亡者数は192人に上る。
ただしデータの推移を見ると、総患者数に占める重症者や死者の比率は当初より下がりつつある。1月末時点では重症化率15.8%、死亡率2.2%と、通常の肺炎と大きく変わらない水準に落ち着いてきた。
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