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ヤマト運輸は、アマゾン的な事業を狙っていた 1984年に小倉昌男社長が語った「将来は流通業」

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「週刊東洋経済」昭和59年1月28日号

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昭和59(1984)年前後の週刊東洋経済に毎号掲載されていたのが「私の自由奔放経営論」という連載。その第23回に登場したのがヤマト運輸のカリスマ経営者だった小倉正男社長(1924-2005)だ。タイトルは「郵便局何するものぞ!全国ネットで小量貨物のダントツ目指す」である。
1976年、ヤマトは戸口から戸口への小量貨物配送を実現する画期的な「宅急便」を開始する。ところが、当初は従来の伝統的な大口顧客もおり、現場はそちらを優先せざるをえない面があった。そこで社長命令でいっせいに松下電器産業(現在のパナソニック)の荷物の運送を止めたという。この時のことを「荷物が一挙に3割も減り大幅減益になっちゃった」とあっけらかんと振り返る。
現在のヤマトは大口荷主であるアマゾンジャパンなど大口流通事業者との関係に腐心している面がある。しかし、おそるべし。小倉社長は「流通、物流、情報の3つで世の中の経済は成り立っていますが、物流業者から情報業者に変身し、さらに将来は、全国のメーカーと直結しているだけに流通業者になる資格があると思っています」と未来を構想していた。「今の通販業者は発注からお届けまで2週間。どうにも長すぎる。ヤマトなら商品管理が商品流通センターを持っているし、注文を受けてから3日以内に届けられる」とも。つまり、小倉社長がもう少し若ければヤマトをアマゾンのような巨大EC企業に育てていたのかもしれない。
想像は膨らむ。まさに「覧古考新」の醍醐味ともいえるインタビューをお読みいただきたい。

 

ヤマト運輸社長 小倉昌男(おぐら まさお)/大正13(1924)年生まれ。1947年東大経済学部卒業、1948年入社。1961年取締役、1965年専務を経て1971年3月社長就任。婚礼荷物、引っ越しから始まった会社を父より引き継ぐ

郵便局何するものぞ!

全国ネットで小量貨物のダントツ目指す

戸口から戸口への小量貨物配送――いわゆる宅配便でブームを仕掛けたのがヤマト運輸。コロンブスのたまご的発想で運送業界に〝活〟を入れたこともさることながら、郵便小包、さらには運輸行政のあり方を改めて考え直させた功績は大きい。運送業の原点から物流業の将来像まで、小倉社長の議論は一段と熱を帯びる。

 

――ヤマト運輸は56~58年度(1981〜83年度)で「サービスダントツ3カ年計画」を実施中。ムリといわれていた目標の宅急便1億個を上回り、いぜん快調なペースが続く。

小倉 「ダントツ計画」という名前は女子社員の提案によるもので、宅急便の取り扱い個数や収入よりも、とにかく宅急便のサービスをダントツにしよう、そのためのハード、ソフトを含めた体制づくりを3年間でやろうというのが趣旨です。

宅急便の全国ネット化とスピードアップを2大目標に設定しましたが、全国ネット化は免許のカベがあって残念ながら、現在までできていません。具体的には山梨、沖縄がまだ全然ダメで、青森、秋田、岩手さらに山陰地方も面的なネット化はできていません。

スピードの点では85%が翌日配達、3~4日目が15%で、完全ではないが、かなり前進したとみています。大隅半島から根室までというのもあって、100%は不可能ですね。

59年度(1984年度)から新3カ年計画をスタートさせますが、ここではサービスをさらにレベルアップし、翌日配達の比率をさらに上げます。その間コストがかかり、利益率は一時的にダウンするかもしれない。例えば、東京-青森間は夜の1便だけなのを昼と夜の2便にするとか、集配サイクルを2サイクルにしてスピードアップしなければならないからです。

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