池袋、「たまたま開設」の駅が生んだ街の大発展 当初は貨物の拠点、にぎわいは大塚が上だった

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池袋駅は貨物駅として存在感を強めていたものの、旅客駅としての利用者は決して多くなかった。むしろ1駅隣にある大塚駅のほうが乗降客数は多く、その数は1917年に年間100万人に達していた。それは池袋にターミナルを据える東武東上線、西武池袋線の前身が会社を立ち上げたときの計画からも読み取れる。

東武東上線の前身である東上鉄道は1911年に創立。当初は巣鴨駅付近にターミナルを開設する予定だったが、後に大塚辻町(現・東京メトロ丸ノ内線の新大塚駅付近)へと変更している。1912年に創立した西武の前身である武蔵野鉄道も、当初は巣鴨付近にターミナル駅を開設する予定にしていた。

だが、この2社が池袋駅へとターミナルを変更したことで、鉄道路線が集積。こうした影響もあり、同駅の年間乗降客数は1921年度に大塚駅を抜き、600万人を突破した。

しかし、それでも街のにぎわいは大塚駅のほうが一枚上だった。この時期、東京大宮電気鉄道や東京日光電気鉄道といった、東京進出を狙って計画された私鉄の多くは、大塚もしくは巣鴨をターミナルにすることを計画していた。

豊島区発足、東口がにぎわいの中心に

時代が昭和に移ると、東京市は市域の拡張を検討。1932年、北豊島郡に属する巣鴨町・西巣鴨町・高田町・長崎町が合併して豊島区が発足する。新区名は古くから栄える目白を採用して目白区とする案が有力で、将来性を考慮して池袋区とする案も出されたが、折衷案として郡名から豊島区に決まった。

池袋駅の発展は東口から始まった。西口の本格的な開発は1950年代からだ(筆者撮影)

新たな区役所は交通の便が考慮され、池袋駅付近に開庁することが異論なく決まった。区名になることは逃したものの、区役所が設けられたことで池袋は豊島区の中心的な街へと姿を変えていく。

それまでの池袋は、武蔵野鉄道や東武東上線など郊外へと通じる鉄道路線は開設されていたものの、都心部へと直結する鉄道網がなかった。

しかし、都心へとつながる路線がまったく計画されていなかったわけではない。武蔵野鉄道は1925年に池袋―護国寺間の路線免許を取得。昭和初期に立て続けに恐慌が発生していたこともあり未着工のままになっていた。同免許は東京市へ譲渡され、それが転用される形で1939年に市電の池袋線が開通。市電が都心部と直結したことで、池袋駅は東口ににぎわいが生まれていった。

東口には、百貨店の老舗・白木屋と京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)系列の京浜百貨店の合弁で1935年に菊屋デパートがオープン。同店は1940年に武蔵野鉄道が買収し、店名は武蔵野デパートとなる。

池袋駅東口は1944年の建物疎開により多くの家屋が移転・撤去させられたが、戦火が激しかったこともあり、戦後は焼け野原と化した。それは武蔵野デパートも例外ではなく、荒廃した池袋駅や百貨店の場所には闇市が立ち並んだ。

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