近鉄「名物広報マン」が転身、畑違いの第2の人生 「鉄道少年」から電車の運転士に、その先は?

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阪神沿線で育っただけに阪神への愛着は深い。当然阪神に入社するつもりだった。ところが、気楽に構えて返事をしないまま、北海道に蒸気機関車の写真を撮りに行ってしまった。旅行中、高校から母親の元に「早く決めてほしい」という電話が何度もあった。福原に連絡を取ろうとしても連絡先がわからない母親は、「先生にお任せします」と選択を高校に委ねた。

担任教師はこう考えた。「福原は鉄道が好きで全国を旅している。きっと路線の短い阪神よりも大阪、奈良、京都、三重、愛知、岐阜の6府県を走る近鉄のほうがいいに違いない」。

旅行を終えた福原が学校に顔を出すと、先生やクラスメートから「近鉄だぞ。頑張れよ」と口々に声をかけられた。「え、近鉄?」。目の前が真っ白に。でも、これも運命。気を取り直して近鉄に入社した。1975年のことだ。

特急の車掌に抜擢

最初の配属は近鉄難波駅(現・大阪難波駅)。駅員として2年勤務した後、車掌登用試験を受けた。毎年一定数が合格するわけではなく、欠員の補充分の人数しか合格しない。運悪くその年の競争率は高く70人中5人しか受からない狭き門。でも、「ほかのみんなには負けたくない」。必死に勉強して一発で合格した。

晴れて車掌に。奈良線、京都線などの路線を受け持つ西大寺列車区に配属された。普通列車や快速急行の車掌を担当したが、目標は特急列車の車掌。自分が乗る赤い電車の近くに花形の特急電車が止まっているのを見るたびに、「いつかこれに乗るぞ!」と誓った。

20歳、車掌時代の福原氏(写真提供:福原稔浩)

特急の車掌になれるかどうかは日頃の勤務状況を上司が判断して決める。働きぶりが認められ、2年目に特急の車掌に抜擢された。特急の車掌は乗客とふれあう機会が格段に多い。たとえば、乗客から旅先の見どころを聞かれたときに、乗客が満足できるだけの情報を伝えられるかどうかは車掌の腕次第。福原の説明に「ありがとう」と答える乗客の笑顔を見ると日頃の激務の疲れが吹っ飛んだ。「このまま車掌のまま会社人生を終えてもいい」とさえ思った。

特急の車掌として充実した日々を送っていたが、そのうちに福原の同期や後輩の中から運転士になる者が出てきた。「自分も運転士になりたい」。持ち前の負けん気が頭をもたげてきた。ただ、勉強不足がたたり、初回の運転士登用試験は不合格。3度受けて1984年に合格した。

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