──法学部に入りました。
最初は憲法のゼミに入った。当時、税法はまだ行政法の科目で教えていて、これからの分野で教員にもなりやすいとアドバイスを受けた。だが、校内には専門の先生がいなくて、早稲田大学に聴講に行ったりした。毎朝5時6分の熊谷駅発の電車に乗り、アルバイトをいくつも掛け持ちした。それでも月12万円を稼ぐのがやっとだった。
──株式投資は早くから……。
月に1、2回父に電報が来た。銘柄情報を教えるものだった。父が亡くなった際、8銘柄を1000株ずつ持っていたが、親族に、今売ったら損するといわれ、そのままにした。1000株なら30円上がると3万円儲かる。父の市役所での月給が3万円だったらしい。8銘柄の名前を母から聞いて、30円上がるまで待って売った。自分では針布という銘柄を1株30円で初めて買い、倍以上になったことを覚えている。
──「内部障害」での苦労はずっと続きますね。
おむつをしていて、帰宅後自分で処理をした。小学校では普通に装うのは大変で、知られないようにするために精神的に疲れ切った。帰宅後お尻を風呂場で洗った後、翌朝までずっと寝ている日もしばしば。中学校になると自転車通学の一方、何人かの友人にはカミングアウトできて、楽になった。いつもにおいにはコンプレックスがあったが、高校では旅行に誘ってくれる友人もできた。
膀胱がん、肝臓がん、皮膚がん、前立腺がん、白血病
──がんにもかかります。
社会人としてのスタートは会計事務所の助手。しばらくして破綻企業の処理を担当する業務が増えてきた。それを強み業務にして35歳で独立した。
最初の膀胱がんはその不動産兼再建業に脂が乗った頃だった。ただ、その頃はバブル期で、半年ぐらい入院したが、それでも預金を下ろせば給料を払えた。不動産関連は、やっていれば儲かった時代だった。バブル崩壊後も破綻処理や債権回収の仕事はなくならない。逆に社員の前で「他社倒産、自社繁栄」と大言壮語していた。「土下座担当」と呼ばれる仕事や裏社会の面々との付き合いもいとわなかった。
それなのに、自分が倒産する羽目になった。一大転機となる白血病になる前に、肝臓がん、皮膚がん、前立腺がんが発見された。膀胱がんで膀胱を取り、尿管からカテーテルを経て尿を外にためる。毎週洗浄が必要で、同時に抗がん剤を打ちながら血液検査をしていた。すると、相次いで関連の数値異常が見つかる。ただこれらのがんは軽度で済んだ。
──42歳のときの白血病発病が決定的だったのですね。
治癒は難しいといわれ、会社を整理することにした。自分の将来を考え、家賃収入で食べていけるようにと購入したビルが14棟あったが、それらもバブル期の高値つかみ。処分し、社員に退職金を払ったら大したおカネは残らなかった。それでも、1年ぐらいの入院で平癒したと診断され、病状は収まった。それでもなかなか退院していいといわれず、半年ほど入院したまま。退院後は生活保護を受け、区の世話で住居を確保してもらった。
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