18世紀イギリス・フランスでの悪税と脱税事情 なぜイギリスの古い家には窓が少ないのか?
農民たちは査定が低くなるように、家屋をみすぼらしいものにしたり、農耕牛馬を手放したり、買うのを控えたりしました。当然のことながら、農業は停滞しました。
しかもこのタイユ税は、貴族や聖職者、官僚などは免除されていました。
そのため、免税特権を持つ貴族たちはますます富み、農民や庶民たちはどんどん貧しくなっていくという状況になっていきました。
フランスの財政は、長い間、慢性的な赤字でした。
フランス革命のときの国王ルイ16世(つまり処刑されてしまう国王)も大変な借金を抱えていました。前国王時代の七年戦争や、アメリカ独立戦争支援などの戦費により、フランスの借金は30億リーブルに達していたのです。
これまで何度かデフォルトを起こしていたフランスは、金融家から信用がありませんでした。そのため利子が5〜6%と高く、利子支払いだけで年間2億リーブル近くになります。当時のフランスの国家収入が2億6000万リーブル程度だったので、歳入の大半が、利子の支払いに充てられたことになります。
スイスの銀行家ネッケルを財務長官に抜擢
実は、ルイ16世は、かなり国民思いの国王だったようです。
というのも、この財政危機に際し、これ以上、国民から税を取らずに、貴族や教会(聖職者)に税を払ってもらおうと考えたからです。
また歴代のフランス国王も、実は貴族や教会にもっと税金を払うように働きかけていました。しかし、ほとんどの国王が、貴族や教会に反発され課税を断念しているのです。
ルイ16世は、1777年に、スイスの銀行家ジャック・ネッケルを財務長官に抜擢します。
これにはスイスの金融界に広いコネクションを持っている銀行家のネッケルを登用することで、スイス金融界からの支援を受けようという意図がありました。当時、スイスは、フランスにとって重要な金の借り入れ先だったのです。
ネッケルは、国家財政立て直しのために、徴税請負制度の改革に乗り出します。
国は、徴税権を売ることで、手っ取り早くお金が手に入ります。しかし、当然のことながら、実際に徴税できる額よりも低いお金しか入ってはきません。そして徴税請負人たちは、決められた税金よりも多くを取っていたために、民衆は苦しめられました。
また当然、徴税請負人には、「徴税権を購入できる」ような富裕な者が就くことになります。つまり、徴税請負制度というのは、「富裕な者が徴税特権を得て、さらに富裕になり、民衆を苦しめる」という致命的な悪循環となっていたのです。そして、この徴税請負人の多くは貴族たちでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら