能弁の渋沢栄一を丸め込む「大隈重信」驚く説得術 頭が切れるだけでなく「胆力」も併せ持つ
さらに大隈は、渋沢を説得する言辞を繰り出す。それは慶喜というワードを出してくるのである。「静岡藩から役に立つ人間が中央政府に入ったということになれば、慶喜公も肩身が広い(中略)君が政府に仕える事は、慶喜公に対しても、忠義となるのである」と。
渋沢の心の中に、慶喜への忠誠心が強固にあることを見て取った大隈は、政府に仕官することは慶喜のためにもなるのだとの論法を展開したのだ。
大隈は、渋沢が実業の世界に関心があることを承知したうえで、「ぜひとも確立しなければならない諸制度がとても多い。これらの根本が確立しなければ、到底、実業の発達を期することはできないのである。政府に入って、これらの根本を確立することに努力するのは、君の主張する実業の進歩を計るうえからいってもむしろ急務ではないか」(以上の大隈の言葉は渋沢の回顧録『青淵回顧録』を参考に記述)と主張するのである。
今度は、主君のことではなく、政府に仕えることはあなた(渋沢)のためでもあるのですよとの誘いの文句。これで、渋沢はトドメを刺されたに違いない。渋沢も、会所経営をするうえで、財政などの法整備の必要を痛感していたからだ。
要は「新たなルールを共に創ろうではないか」と誘われたわけだから、魅力的な提案に違いない。「脅迫」的言辞とそれを補って余りあるほどの現実的・論理的な論法。そして、新たな仕組みを創るという理想。そうしたものが混じり合った大隈の言葉によって、渋沢は説得されたのだ。
渋沢は一晩考えて、辞令を受けることになった。そして、度量衡の制定や国立銀行条例の制定に携わることになるのである。大隈という人間がいかに頭の切れる人かが、この渋沢の説得シーンからもわかるのではないか。
襲撃によって右脚を切断しても動じない
筆者は、大隈は頭が切れるというだけでなく、胆力もあると思っている。それを実感するのが、明治22年(1889)10月18日の大隈遭難事件のときのことだ。当時、大隈は外務大臣で、外国人の任用を内容とする条約案を推進しようとしていた。それに反対していた国家主義組織・玄洋社の一員、来島恒喜が爆弾によって大隈を襲撃したのだ。
大隈は、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下3分の1で切断する重傷を負う。現代の政治家ならば、暗殺犯を非難するか、恐ろしくて政治家などやっていられないと辞職してしまうだろうが、大隈は違った。
「爆裂弾を放りつけた奴を、憎い奴とは寸毫も思わず」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と、自分を殺そうとした暗殺者・来島についてこう話したのである。凄まじい胆力の持ち主というべきだろう。
実は、渋沢も明治になって、襲撃を受けたことがあるが、襲撃者のことを憎むのではなく、大丈夫かと心配している。出所後、犯人が困窮しているとの噂を聞いて、お金を送ったりしているのだ。こうしたことを考えたとき、渋沢と大隈、似た者同士ではないかと思うのである。渋沢が大隈の言葉に動かされたのも、前述したような論法もあるだろうが、大隈の気迫に押されたのかもしれないし、胆力を見て取ったのかもしれない。
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