もしも、家族がそばにいたらその都合や意向が優先され、本人が自宅にいたくても病院や施設に移されていたかもしれないと、柴田会長は補足した。
1つの生き物になっていたような無言の時間
5月1日の午前7時過ぎ、西河は田中宅に1人で来ていた。前夜の様子から、もう長くないと思ったためだ。西河は再びベッドに横たわる田中の頭を左ももにのせて、静かに呼吸を合わせた。
本人の死への不安や恐れを分かち合う「看取りの作法」だ。
「田中さんが私のことをじーっと見つめられるので、私は時おり黙ったまま目で『どうしたの?』と尋ねるわけです。でも、彼は顔を小さく左右に動かして無言で、『なんでもない』と伝えてくれるだけでした」
最期が近づく田中は、西河の手をずっと握っていることさえ疲れる。だからその手を時おり放すのだが、しばらくすると西河の手を再び探す。彼女の手に触れると弱々しい力で握る。それが繰り返された。
「次第に人と人の垣根を超えて、1つの生き物になっているような気持ちになりました。ものすごく幸福な時間でしたね」(西河)
到着したケアマネジャーが玄関のドアノブをカチャッと回した瞬間、田中は大きな息を1つして旅立った。その後に駆けつけた在宅医は、「最期まで自由に暮らして、よい看取りだった」と、ケアマネジャーや西河らをねぎらった。
実は在宅医の彼も、診察前に田中が入浴したまま浴槽から出てこられなくなった際、怒ることもなく風呂場までやってきて、「入浴できるのは健康な証拠」と、田中に伝えたことがあったという。
彼が言った「よい看取り」とは、田中が最期まで自宅で暮らせるように尽力した、介護チームの全員に向けられていたのかもしれない。
(=文中敬称略=)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら