
自分の名前も言えないほど、引っ込み思案だった
ピアニストである父と、声楽家の母のもとに生まれた、はいだしょうこさん。家庭では、こうあらねばならない、というような型にはめる教育ではなく、個性を尊重して伸び伸びと自由にさせてもらったと語る。
「勉強をしなさいとか、これをやりなさい、これは駄目というようなことは、基本的なしつけを除いて、いっさい言われたことはありません。両親は、私の気持ちをつねに尊重してくれていたように思います。例えば、私は昔から絵が苦手だったのですが(笑)、スケッチをしに牧場に行ったとき、ほかの子どもたちは画用紙にバランスよく牛を描いていたのに、私だけ画用紙を緑色に塗り潰して、黒いゴマのような小さい牛を描いたんです。でも両親はその絵に驚くこともなく『しょうこちゃんにはこう見えたんだね』と、私の個性として受け止めてくれました」

そんなはいださんは、子どもの頃は自分の名前を言えないほど恥ずかしがり屋な性格だったという。引っ込み思案でいつも後ろに隠れているような子が、歌を歌うときだけは別人のように、はつらつとしている。そう気づいた両親が、「この子は歌うことで自分らしい表現ができる」と、小学校5年生の時に「全国童謡歌唱コンクール(現・童謡こどもの歌コンクール)」に応募した。そこでグランプリ賞を獲得したのが、プロとして歌の道に入った第一歩だった。
「そのコンクールに、『めだかのがっこう』や『ちいさい秋みつけた』の作曲家である中田喜直先生が審査員として参加されていました。コンクールが終わった後で、中田先生が楽屋にいらして直接声をかけてくださり、それがきっかけで、学業と両立しながらプロの童謡歌手として全国を回ることになりました。小学生ながらに、お金をいただき、プロとして舞台に立つ厳しさを感じる日々でした。体調管理はもちろん、舞台でのしきたり、例えば、先輩とお洋服の色がかぶらないようにすることや、楽屋での振る舞い方などは、大人の世界でお話を聞きながら身に付けていきました」
そんな日々を続けるうち、心に芽生えた夢が「うたのおねえさん」になることと、宝塚の舞台に立つことだった。そして、まずは夢の1つであった宝塚へ進む決意をした、はいださん。
中田先生には「わざわざ厳しい世界に行かなくても……」と心配されたが、高校2年の時、国立音楽大学附属音楽高等学校を中退、宝塚音楽学校へ入学した。
「宝塚音楽学校に入った当初は声量がなかった私を、1年間でオペラが歌えるまでに成長させてくれたのが南川玉代先生でした。南川先生の指導は厳しくはありましたが、こうあるべきだといった押し付けや強制はいっさいなく、否定されるような言葉を言われることもいっさいありませんでした。そして、愛があることを感じました。だからこそ、先生を信頼して身を預けることができたんだと思います」