2013年に設立されたニュージーランド発のEdTech系スタートアップ企業の日本法人Crimson Education Japanは、ハーバード、イェールのようなアイビーリーグやオックスフォード、ケンブリッジなどの海外トップクラスの大学に多くの高校生を送り込んでいる。海外留学を目指す高校生の大学選びから英語学習の指導、志望理由書やエッセイの添削、課外活動のサポート、面接の練習までオンラインで支援している企業だ。
同社の代表取締役社長である松田悠介氏は、文部科学省中央教育審議会の教員養成部会委員や一般社団法人「教師の日」普及委員会代表理事など公的な役職も務め、教育分野で幅広く活躍している。そんな松田氏のハーバード大学やスタンフォード大学で学んだ経歴を見れば、子ども時代から“デキる子どもだったに違いない”と思ってしまうが、実は勉強もスポーツも芸術も苦手だったという。
「私は、小学校時代に初めていじめに遭って……。数多くの子どもたちの悪意のエネルギーが、一個人の自分に集まることのつらさを体感しました。なぜそうなったのか。今だからわかるのですが、もともと学習に遅れがあったのです。自分は話を聞いたり、体を動かしたり、話をしたりすることで学ぶのは得意だったのですが、読み書きで学ぶことが不得意で成績もよくなく、いじめの対象になってしまったんだと思います」
だから、先生が板書をして、それをノートに書き取ってテストを受ける、読み書きが得意な子どもが学びやすい日本の小学校は、居心地の悪い空間だったという。そこで松田氏は、いじめっ子の同級生たちと同じ中学校には進学したくないという思いから、必死に勉強して何とか私立中学に滑り込む。
「しかし、勉強についていけず成績は断トツ最下位。体も小さかったためにスポーツも苦手でした。しかも色弱のせいで芸術も大嫌い。内気な性格も相まって、取りえが何もない子どもだったのです。そのため、中学2年生の終わりから、またしてもいじめが始まりました。毎休み時間、そして昼休みに同級生がやって来て柔道技をかけられて、身体的な暴力を受けました。大人は誰も助けてくれない。とても苦しかったですね」
なぜ大人は救ってくれなかったのか。それは、先生の前でわざわざいじめをする人がいないからだと松田氏は言う。いじめは大人に見つからないところでやるもの。陰湿だからこそ、先生の目が届かないのだ。そのうえ松田氏は中学3年生の時に、親友だと思っていた友人に裏切られてしまう。親友がいじめっ子の側に回ってしまったのだ。
「いじめっ子の側に回らなければ、彼自身がいじめの対象になってしまう。今なら、自分を守るためにやったんだということはわかります。しかし、信頼していた人から裏切られるという経験は、中学3年生である自分にとっては、非常につらいものでした。その結果、自分が生きている意味がわからなくなって自殺を決意したんです。金曜の体育の授業の時に、屋上から飛び降りて死のう。そして自分をいじめたやつを一人残らず後悔させてやろうと思ったのです」
人生を変えた恩師、教育の世界に入るきっかけとは
その自殺を決行しようと思っていた週初めの月曜日、松田氏は自身を救ってくれる恩師と出会うことになる。体育教師を務めていた松野先生だ。
「先生は僕に向かって『松田、どうすれば強くなれるのか一緒に考えていこう』という言葉をかけてくださったのです。僕はその一言に救われました。それから松野先生は休み時間にわざわざ教室に来てくれたり、毎朝6時半から一緒にトレーニングに付き添ってくれたり。体を大きくするために運動生理学の本を調べながら、一緒に勉強もしてくれたのです」
そこから松田氏の人生は少しずつだが、変わっていく。松野先生は、松田氏が自分で自分の特性や可能性に気づけるよう、半年以上向き合ってくれたのだ。松田氏は、自分の強みが理解できるようになり、その役割をチームの中で果たすことによって成功体験を積んでいく。徐々に自信を持つようになるとともに、体も大きくなり出したことから、ようやくいじめから抜け出せたという。
その後、高校生になって学生生活を楽しめるようになった頃、松田氏は松野先生にお礼に行ったという。「先生のおかげで救われました。人生が変わりました。一生かけて恩返ししていきたいです」。そう言うと、松野先生からこんな言葉が返ってきた。
「俺に恩を返そうと思うな。同じような状況にいる子どもたちに向き合える大人になれ」
松田氏は、「ビビッときた。マジかっこいいな」と心から思ったという。「そんな言葉が言えるような大人になりたい。それが体育教師を志すようになる原体験であり、教育の世界に入るきっかけでした」。実際、松田氏は日本大学文理学部体育学科に進み、夢だった体育教師になる。
「自分で言うのも変ですが、僕の授業は人気だった。どうすれば子どもたちが興味を持ってくれるのか、教科書に書いていない内容を子どもたちの反応を見ながら取り入れて、授業をつくっていたんです。そこに時間を使ったし、子どもも反応してくれて信頼関係が築けたんだと思います。
しかし、同じ子どもたちが、ほかの授業では話を聞かず、学級崩壊が起きていたのです。その原因を考えると、子どもたちではなく、黒板に向き合っている先生にあるのではないかと。しかも、先生は授業を聞かない理由を子どものせいにしてしまっていた。そこに違和感を抱きました。本来、子どもは悪くない。先生が現状を直視し、学級崩壊をしない授業に改善することが大事だと思ったのです。
そもそも子どもが嫌いで、教育に思いがなくて先生になる人なんていないんですよ。なぜ、学校現場に長くいると先生の熱い思いがそがれてしまうのか。先生の思いが持続するような学校文化をつくるにはどうしたらいいのか。そのためには自分で学校をつくらなければならない。自分が信じる教育に共感してくれる先生と生徒を集めて、先生たちが120%の力で教えていける教育改革をしたいと思ったのです」
情熱や面白みがない学びから子どもたちを解き放ちたい
学校をつくるには、学校経営やリーダーシップを学ぶ必要がある。しかし、日本には自分の希望に沿った教育を受けられる大学はない。そこで松田氏は海外の大学に照準を定め、その結果、ハーバード大学の教育大学院に見事入学を果たすことになる。
「ほかにもコロンビア大やウィスコンシンマディソン大に合格しました。しかし、必ずしも英語やGRE(共通テスト)の成績がよかったとは言えません。それでも合格できたのは原体験やビジョンが明確だったからです。米国の大学は学力だけが入学基準ではないのです。自分のビジョンを実現するために思考する、そのプロセスも評価されるのです」
たとえビジョンがあっても、実際には働きながら海外留学のための勉強をするのは大変だし、モチベーションを維持し続けるのはなかなか難しい。松田氏も何度も苦しんだというが、そのとき助けになった効果的な方法があるという。
「まず人に宣言して、その目標から逃げられないようにすることが大切です。そのために私は『体育教師がハーバードを目指す遠き道のり』というブログを立ち上げました。そうやって周囲に言うほど、自分の言葉として思いが強化されていく。もし他人から『できっこない』と批判されても、努力して応える。それを続けていけば自分が洗練され、やがて目標に到達できるのです。
もう1つ大事なことは習慣をつくることです。例えば、トレーニングを毎日するために、ベンチプレスをつねに枕元に置いておくといったような。人間は必ず堕落する生き物だからこそ、その前提を受け止め、弱みを克服するための習慣をつくることが大切なのです」
そんな松田氏が現在、海外留学の支援をしているのは流行のグローバル人材を育成したいからではないという。それよりも、自分は何者で、どこへ向かっていきたいのか。それを大学進学の段階で考える機会をつくることが重要だという。しかし、その体験は今の日本ではできない。そもそも有名大学に入るために、法学部と経済学部を併願するのはおかしいし、就職においても自分の本質と向き合って活動している人がほとんどいないと指摘する。
「だからこそ、要所、要所のタイミングで自分の意思と向き合うことが必要なのです。その意味で海外進学はわかりやすい取り組みだといえます。情熱を持って学ぶからこそ、世界観が広がるし、自分のような人間でも世界の舞台で戦えることがわかるのです」
松田氏は、これから日本の教育をどう変えていきたいのだろうか。
「AI社会の到来に危機感を覚える人がいますが、実際には人がやりたくないことをやらなくてもよくなる社会が来ると考えています。いわば、それぞれが好きなことを徹底的に探求できる時代がやって来るのです。その意味で、教育の世界でも情熱や面白みを感じられない学びに時間を拘束している今の学校教育から子どもたちを解き放っていきたいと考えています。
子どもたちはお金では買えない貴重な時間をたくさん持っています。しかし、今の子どもたちが学びの意義をどれだけ自覚しているのか。目的意識のない空間にどれだけ拘束されているのか。それは近代教育の罪です。私が今やりたいことは、オンライン教育を使って、そこから子どもたちを解放することなのです。
今年4月にニュージーランド政府の公認が下り、オンラインのインターナショナルスクール Crimson Global Academy を開校しました。世界でトップクラスの教育者を集め、オンラインテクノロジーを駆使し、11〜18歳の児童生徒に効率的に最高の教育を届けています。子どもたちは空いた時間で自分の『好き』を徹底的に探求することができるのです。オンライン教育の可能性は無限です。この領域でフロントランナーになれるよう、全力で走り抜けたいと思います」
(撮影:今井康一)