人間は、新しい事態に直面すると、しばしば、その対処に失敗する。だが、それは、やむをえないことである。なぜなら、先を見通す人間の能力には限界があるからだ。
新しい事態の対処に失敗するというのは、人間の宿命であり、悲劇である。あの戦争は、そういう新しい事態だったのであり、悲劇であった。悲劇の反省などできるわけがない。小林は、そう言いたかったのである。
本来、新しい事態とは、従来の思想が通用しないような状況である。にもかかわらず、人間は、新しい事態という現実を直視せず、従来の思想の型に無理に当てはめて、理解しようとしたがる。小林は、昭和14(1939)年には、すでにそう書いていた。
国民の大部分が行つた事も見た事もない国で、宣戦もしないで、大戦争をやり、新政権の樹立、文化工作、資源開発を同時に行ひ、国内では精神動員をやり経済統制をやり、といふ様な事態は、歴史始つて以来何処の国民も経験した事などありはしない、そんな事はわかり切つてゐるにも拘らず、事変の最大特色が、その性質の全くの新しさにあるといふ事が、不思議な事だが、容易に理解し難い。ひどく新しい事態といふものはいつもさうだ。世の中に別して新しい事態も見えぬときに、新規な解釈を追ふ癖に、事態の方から全く新しい顔を見せつけられると、在り来りの考へ方で、急いで納得したがるものだ。(「疑惑II」)
コロナ禍という新しい事態においても、当初、「新型コロナによる死亡率は、インフルエンザとそう変わらない。新型コロナを恐れるな」などと喧伝する知識人たちが現れた。彼らは、新型コロナの「最大特色が、その性質の全くの新しさにあるといふ事」が理解できず、インフルエンザという「在り来りの考へ方で、急いで納得したが」ったのであろう。
戦時中の政治家や知識人たちも、戦争の新しさから目を背け、「在り来りの考へ方で、急いで納得したが」った。これに対して、一般の国民は戦争に対して「黙って処した」と小林は言った。
政府の強制なしでも「耐えた」国民
この「黙って処した」という言葉もまた有名であるが、その意味するところは、必ずしも知られているとは言えない。
当時の国民は、総力戦という新しい事態に対処するために、政治指導者に煽動されるまでもなく、自然と一致団結した。そこに国民の暗黙の智慧を見た小林は、それを「黙って処した」と表現したのである。
事変の性質の未開の複雑さ、その進行の意外さは萬人の見るところだ。そしてこれに処した政府の方針や声明の曖昧さを、知識人面した多くの人々が責めた。無論自分達に事変の見透しや実情に即した見解があつたわけではない。今から思へば、たゞ批評みたいな事を喋りたかつたに過ぎぬ。それにも拘らず、事変はいよいよ拡大し、国民の一致団結は少しも乱れない。この団結を支へてゐるのは一体どの様な智慧なのか。それは日本民族の血の無意識な団結といふ様な単純なものではない。長い而もまことに複雑な単純な伝統を爛熟させて来て、これを明治以後の急激な西洋文化の影響の下に鍛錬したところの一種異様な聡明さなのだ、智慧なのだ。
この智慧は、今行ふばかりで語つてゐない。思想家は一人も未だこの智慧について正確には語つてゐない。僕にはさういふ気がしてならぬ。この事変に日本国民は黙つて処したのである。これが今度の事変の最大特徴だ。事変とともに輩出したデマゴオグ達は、自分達の指導原理が成功した様な錯覺を持つてゐるだらうが、それはあらゆる場合にデマゴオグには必至の錯覚に過ぎぬ。(「満州の印象」)
これを読んだとき、私が思い出したのは、コロナ禍の中で、国民が政府に強制されなくとも、自主的にマスクを着け、外出を自粛し、ひたすら耐えている姿であった。国民は、コロナ禍という新しい事態に「黙って処した」のではないだろうか。
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なかの たけし / Takeshi Nakano
1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『奇跡の社会科学』(PHP新書)などがある。
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