タクシー運転手になった元社長が切々語ること 幸福も不幸もたくさん経験したけれど・・・

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そんな日々が、半年以上も続いた。日中眠くて仕方ないので睡眠導入剤を飲んでみたが、一向に熟睡できない。私はやがて、深酒をするようになった。もともとあまり量を飲める方ではなかったが、吐かない程度にだましだまし飲み続け、ある値を超えると、すべてがどうでもよくなる酩酊状態を維持できることを知った。一時的な現象ではあったけれど、それは私にとっては救いだった。

その日も、東京のどこだったか、おそらく渋谷か赤坂界隈でそんな飲み方をして終電を逃してしまい、タクシーに乗り込んだのだった。ドライバーは私よりかなり年かさらしい、恰幅のいい人物だった。車に揺られていい気分になって、よまやま話を始める。最初は天気の話。野球もサッカーも好きではないから、景気の話。国道246号線から世田谷通りに入り、もう少しで多摩川を渡るというあたりで、ドライバーが身の上話を始めた。

「実は私、以前は会社の社長をやってましてね」

「へえ、なんの会社ですか」

「まあ、輸入関係なんですが、バブルがはじけましてね」

「バブルでやられましたか」

「やられました。取引先が飛んでしまったんです」

「飛びましたか」

「飛びました」

元社長はその後しばらく、黙ってハンドルを握っていた。私には経営のことなど、わかりはしない。「飛ぶ」という言葉が「倒産」を意味するのか「逃亡」を意味するのかも、はっきりとはわからなかった。

多摩川を渡り切ったあたりで、元社長が再び口を開いた。

「私の会社自体は悪くなかった。まったく悪くなかった。順調に行っていたんです。私は経営者としてはね、よくやっていたんです。相手が飛んじゃっただけで、私の会社はまったく順調だったんですよ」

「ああ、そこの床屋の先で止めてください」

”元社長”が見せてくれた記録

料金を払うとき、元社長はルームライトをつけてくれた。礼を言って降りようとすると、元社長が大きな声を出した。

「旦那、ちょっと待ってくれよ、これを見てくれよ」

取り出したのは、分厚い大学ノートだった。

「いいですか、一番左が日付。次が乗せた時刻と場所。その次が降ろした場所。次が運賃、そしてお客さんがどういう職業だったか。私はこれをね、毎回、全部記録しているんです。そして分析しているんです。分析して、いいお客さんを乗せるためには、いつどこへ行けばいいかを毎日毎日考えて走ってる。だから、営業所でトップなんです。いつもトップの成績なんですよ。わかりますか、旦那」

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