スポーツの聖地、国立競技場の最後の日 父と息子の半世紀の物語

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もっとも、本人としては、競技選手としてトラックを走りたいという思いが強かった。400メートルと1600メートルの強化選手に指名され、「高校時代から東京オリンピックに出場することだけを考えてトレーニングしてきた」からだ。しかし、それは叶わず、いわばアトラクションとして国立競技場を走ることになったのである。

坂井は、トラックを半周したのち、聖火台までの階段を駆け上がった。全182段。

いざ上りきって満員の観客席を見たとき、坂井は言いしれぬ興奮に包まれる。7万人以上を飲み込んだスタンド、グラウンドに立つ各国の選手たち、そして、無条件に青い秋晴れの空。坂井がトーチを聖火台へと差し伸べると、勢いよく炎が上がった。

競技者として日本代表に選ばれなかったことなど、すべて吹っ飛ぶような瞬間だった。やがて上空に5機の航空自衛隊機が現れ、5つの輪を描く。ブルーインパルスだ。

この開会式は、世界中に五輪史上初めて衛生中継された。世界が初めて日本の国立競技場を認識した瞬間だった。そして、それは同時に、敗戦国日本の復興を世界に誇示する絶好の機会でもあったわけだ。

マラソン中継をしていた父

そんな栄光の1964年から半世紀を経た2014年春――。 国立競技場のエンディングを飾る生中継番組「緊急生中継!さよなら国立競技場」を任されたのは、TBSスポーツ局の坂井厚弘プロデューサーだった。

坂井は、最初の局内のプロデューサー会議で、こう言い切っていた。

「最も国立を愛している人間なので、いい番組をつくります!」

坂井にとって国立競技場は、特別な場所だった。高校、大学と短距離の陸上選手だった坂井は、幾度となく、この歴史あるトラックで歓喜の声を上げ、悔し涙を流してきたのだ。

坂井が最初に国立競技場を訪れたのは、小学生のときだった。その頃、東京マラソンのゴールは国立競技場で、観戦に行ったのだ。このとき坂井は、フジテレビの中継車の内部も見学している。父親がディレクターとして番組を担当していたからだ。

そして、そのマラソン中継をしていた父親こそ、先の東京オリンピックの聖火ランナー、坂井義則だった。

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