不登校→声優志望だった私が見つけた新しい道 通信制高校で挑んでみてわかったこと

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そして、声優の養成コースがある通信制高校を見つけ、入学することになりました。高校に入学してからは、とにかく忙しかったです。

レッスンは発声や映像にあわせたレコーディングなど、声優の専門学校と変わらないハードなものでした。

さらに、舞台のレッスンもありました。プロの講師に指導を受け、最終的にはお客さんを招いて舞台を見せるのです。

なかには芸能業界の人が舞台を観て生徒にオファーすることもあるので、私もはりきって毎日練習に明け暮れていました。

――本気で声優を目指していたんですね。

はい。だけど私は夢半ばでつぶれてしまったんです。理由は2つありました。

1つは、本気で声優を目指して芸能業界に近い場所にいると、業界の怖い噂を聞くこともあったんです。そういう話をたくさん聞いてしまい「声優になって大丈夫かな、怖い思いをしないかな」と心配になってしまいました。

もう1つは、そもそも自分が声優に向いていないと思うようになったことです。きっかけは講師の先生に「あおとりさんは裏方仕事のほうが向いてるよ」と言われたことでした。言われた瞬間は夢が否定されたショックで頭が真っ白になりました。

でも、確かに一見華やかに見える業界でも、怖い噂もあるドロドロした世界じゃ、私はやっていけないかもな……と、納得してしまう自分もいたのです。

いつしか「死にたい」とまで思うようになり…

思えばこのころが一番つらい時期でした。声優は私の夢で、そのためにこれまで本気でがんばってきたんです。

でも、声優業界の怖さや、「自分には向いてないのかもしれない」という自覚から、気持ちがゆれていました。

今まで必死に努力してきたのに、ここで諦めてしまったら、自分の価値がなくなってしまう気がして怖かったです。高い学費を払ってくれた親にも迷惑はかけられません。

そうした、たくさんの思いで頭がパンパンでした。自分の気持ちを相談できる人もいなく、全部1人で抱え込んでしまい、孤独を感じていました。

そんな日々のなか、いつしか「死にたい」とまで思うようになっていったんです。

――死にたいほどつらい時期をどうやって乗り越えたのですか?

本気で「死にたい」と思っていたとき、私が中学生のころに『不登校新聞』で弁護士の大谷恭子さんに取材したときのことを思い出しました(本紙289号・290号)。

当時の私は、お話のすべてを理解することはできなかったのですが、死刑制度などを通して「生きること」「死ぬこと」について考えさせられる内容でした。

とくに大谷さんが永山則夫事件(注)の弁護人をされたときのお話を、苦しい高校生活のなかで何度も思い出したんです。

ずっと死にたいと思って死刑を望んでいた人が、獄中結婚した女性から「生きてほしい」という思いを受け取り続けることで「罪を背負いながらでも生きたい」と、違う道を選んだ――。このようなお話だったと思います。

この話をなんども思い出すうちに私は、「一度自分で決めた道でも、あとから別の道を選び直すことは悪いことではない」と思うようになっていきました。

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