京阪神のエリート列車、JR西「新快速」疾走50年 時速130kmの俊足と利便性でライバルを圧倒
新快速は1970年10月1日、国鉄大阪鉄道管理局(当時)が京都―西明石駅間に投入した。
1970年と言えば3月から9月まで大阪北部の千里丘陵で万国博覧会(大阪万博)が開催された、関西にとって節目となる年でもある。当初は万博輸送のために増強された「113系」車両を有効活用する形で登場。1日6往復で、新大阪駅は通過駅だった。
1972年には山陽新幹線が岡山まで開業したことで余剰となった急行形の「153系」が充てられ、その車体色から「ブルーライナー」の愛称がついた。1970年代には阪和線に新快速が走っていたこともある。
現在の新快速らしさが表れてくるのが、1980年に登場した専用車両の「117系」だ。愛称は「シティライナー」。153系のような背もたれが直角のボックスシートでなく、進行方向に座席の向きを変えられる転換クロスシートで快適性を向上させた。つり革がなく、照明のカバーや木目調の化粧板と、近郊形電車らしからぬ高級感ある車内からは、ライバルの私鉄への対抗意識がうかがえた。最近では新たな長距離列車「WEST EXPRESS(ウエストエクスプレス)銀河」に改造されて再び注目を集めている。
国鉄民営化で飛躍
1987年に国鉄が民営化され、JR西日本が発足すると新快速も大きな転機を迎えることになる。民営化直前には特急と同じ複々線の外側線・列車線を走ることが可能になり、新快速の本領が発揮できる環境が整えられた。
1989年にデビューした「221系」は運転席と側面の大型窓が特徴のデザインで、新生JR西日本を象徴する車両だ。3ドア・転換クロスシートというスタイルは、現在の主力である「223系」と「225系」にも引き継がれている。
最高時速130kmでの運転は1999年にまず朝の通勤時間帯で開始した。新快速の俊足ぶりは関西の通勤圏を拡大し、兵庫県の播磨地方や滋賀県南部の都市開発にも影響を与えた。どちらのエリアからも大阪まで新快速を使えば1時間前後。通勤需要だけでなく、学生にとっても都市部の大学などの近くに下宿する必要がなく、沿線の自宅から通学できる経済的なメリットを生んだ。
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