コチドリの最期は時にあっけないがゆえに尊い 天敵を巣から遠ざけるため自らがおとりになる

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人間の赤ちゃんや幼児は、大人の保護を受けなければならない存在である。そのため、人間は子どものうちは、意識的であれ無意識であれ、子どもらしさのサインをアピールしようとする。そして、人間の大人たちは、子どもらしさのサインを見ると、保護しなければならないという気持ちに駆られる本能を持っているのである。

大人が子どもを見て、かわいがるのも愛ではない。言ってしまえば利己的遺伝子のなせる人間の本能である。

あるいは、子どもがいない人にとっては、甥っ子や姪っ子はかわいい。甥(おい)っ子や姪(めい)っ子は、自分と同じ遺伝子を4分の1持っているからだ。つまり、甥っ子や姪っ子をかわいがることは、遺伝子を守ることでもあるのだ。もちろん、自分に子どもができれば、自分の子どものほうがかわいらしくなるものだ。自分の子どもは自分と同じ遺伝子を2分の1も持っている存在だからだ。

このように、私たち人間の行動も利己的遺伝子によって説明される。

私たちの行動は単なる本能?それとも愛?

しかし、どうだろう。それは利己的遺伝子の働きであると言ってしまえば、あまりに冷たいし、それが本能なのだと言ってしまえば、あまりに寂しい。私たちの行動は、単なる本能ではなく愛なのだと信じたい。

コチドリの親鳥は、遺伝子のコピーを持つ子どもが危険にさらされれば、危険を顧みずに子どもを守ろうとする。

リチャード・ドーキンスが言うように、すべての生物は遺伝子の乗り物だとすれば、自分の身を守るよりも、未来に遺伝子を運んでくれる子どもが大切なのは、利己的遺伝子にとってみれば当たり前の話なのだ。

しかし、コチドリの親はそれが本能か愛かなどどうでもいいと言わんばかりに、身を挺(てい)してわが子を救おうとおとりになる。それがコチドリの親鳥なのである。

それにしても、コチドリの擬傷は命がけである。

何しろ、そこは自由のきかない地上であり、ヘビやイタチなどは親にとっても天敵で、動きが速い。その天敵を前に自ら身をさらすのだ。

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