日本各地を「急行」が走っていたあの頃の記憶

40年前は179本、合理化進み平成時代に消滅

ヘッドマークを付けた急行「あしずり」。四国はJR化直前まで全線非電化で、気動車急行王国だった(筆者撮影)

気動車急行はローカル区間はもちろん、北海道や東北、四国などの非電化区間の花形として活躍し、函館―稚内間の「宗谷」は本州からの青函連絡船と接続し、最北端の稚内まで680.7kmを10時間55分かけて走りぬいた。四国の急行はヘッドマークを付け、名実ともに看板列車だった。

上野―酒田間の「出羽」のように夜行の気動車急行もあり、帰省客や周遊券旅行者に重宝された例もあった。

中国地方も気動車急行が多く、「丹後」「だいせん」「白兎」など数多くの列車が走っていた。長らく残ったのは、倉吉―岡山間を因美線・津山線経由で結んでいた「砂丘」で、急行が減少する中でも優等列車として君臨し、1997年11月に廃止されるまでファンの注目を浴びた。

急行に使われた気動車は国鉄時代に製造されたキハ58系が最も多かったが、JR化後の新形気動車を使用した例もある。JR東日本は1990年、釜石線の急行「陸中」に新造したキハ110系を投入。名古屋―奈良間133.9kmを結んだJR東海の急行「かすが」は、1999年に快速「みえ」と共通運用のキハ75形が投入された。一般的に急行は2ドア車である中、3ドア車の急行として話題になったが、残念ながら2006年3月18日に廃止された。

ちなみに気動車急行のラストランナーは岡山―津山間の「つやま」で、2009年3月に廃止された。これは気動車急行の歴史に終止符を打つとともに、昼行急行列車の消滅でもあった。

幹線を駆け抜けた電車急行

戦前、京阪神地区の急行電車(急電)に使われたモハ52形。写真は晩年、飯田線で活躍していたころの姿だ(筆者撮影)
電車による長距離列車の始祖となった80系(筆者撮影)

電車による急行運転は戦前からあり、1934年に大阪―神戸間で「急行電車」の運転が始まった。ただ、これはその後の急行とは異なり急行料金は徴収せず、現在の「新快速」の前身である。当時の名車として知られるのが、1936年に誕生した流線形のモハ52形電車だ。

料金を徴収する急行に電車が使用される原点となったのは、1957年に80系電車による運行を開始した東京―名古屋間の準急「東海」と、名古屋―大阪間の準急「比叡」だろう。

翌年にはその後の急行型電車の原型となる153系が登場し、「東海」「比叡」もこの車両に置き換えられた。初の電車による急行となったのは、この153系を使用して1960年に登場した「せっつ」で、東京―大阪間を7時間46分で走破した。

以後、東海道・山陽本線には「いこま」「六甲」「よど」などが登場した。電車による急行は他線にも広がり、1963年には153系を発展させた165系により、上越線に急行「佐渡」、信越本線に急行「信州」などが運転されるようになった。中央本線では「アルプス」が代表だろう。

これらの長距離急行には半分をビュッフェとした車両が連結されており、「せっつ」には握り寿司カウンター、「アルプス」「信州」などではそばが食べられた。今となっては伝説的な急行電車の食堂車だ。

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