「いだてん」羽田運動場と蒲蒲線の数奇な運命 オリンピックの予選開催地、現在は空港に
宣伝の効果もあって、東海道本線には川崎大師への参詣者が多く乗車した。大師電気鉄道が開業すると、アクセスが便利になったことでその数は爆発的に増加する。
その名前からもわかるように、大師電気鉄道は川崎大師へのアクセスを目的にしている。しかし、経営陣は川崎駅と川崎大師とをつなぐだけの鉄道で終わる気はなかった。帝都・東京に路線を延ばせば、東海道本線から利用客を奪える。そうした思惑から、社名を京浜電鉄に改称。川崎から北へと線路を延ばした。
1901年、京浜電鉄は大森駅まで線路を延伸。このときに、京急本線と空港線との分岐駅にもなっている蒲田(現・京急蒲田)駅が開設された。翌年には、蒲田駅―穴守駅間が開業。空港線の原型が姿を現す。
羽田空港の正式開港は1931年とされているが、それ以前の1916年には日本飛行学校と飛行機製作所が設立されていた。飛行機愛好家の間からは、羽田は聖地のような場所として認識されるようになっていた。しかし、それはあくまでも愛好家の間での話。飛行機に乗ることは、庶民には無縁の話だった。
穴守線は人気路線に
京浜電鉄も、穴守線を空港へのアクセス路線と考えて建設したわけではない。穴守線の由来にもなっている穴守稲荷への参詣輸送を主眼に置いていた。
江戸後期に創建された穴守稲荷神社は、さほど有名な存在ではなかった。神社として参詣者を多く集めるようになるのは明治以降だ。
開業当初の穴守線は海老取川を渡れず、海老取川の西岸に穴守駅が設置された。それでも参拝者が穴守線を利用するようになり、穴守駅からは渡し船を乗り継いで穴守稲荷まで行くという参詣ルートが確立する。
電車に乗り、終着駅から渡し船に乗る。今なら二度手間が面倒にも思えるが、当時の参拝者は電車と船、どちらにも乗ることができるので、旅気分を存分に味わえることがかえって好評を博した。そうした参詣者たちの行動に着目した京浜電鉄は、川崎大師と穴守稲荷を回るプランを積極的にPRする。また、回遊券の販売や今でいうところのスタンプラリーなども開催した。
私鉄のビジネスモデルを築いた阪急総帥の小林一三も、京浜電鉄が発案した大師線と穴守線を周遊するプランを体験。小林は往路と復路で違ったルートをたどる京浜の周遊ルートを楽しみ、感心している。
穴守線は大師線とセットで売り出されたが、すぐに穴守線だけでも集客力のある路線へと早変わりしていった。穴守駅が開業したことで駅前は穴守稲荷の門前町といった、たたずまいを醸すようになる。多くの参詣者が通る参詣道はにぎわうようになった。
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