「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図 「失神者」や「ガラスの破損」は日常茶飯事
再び国土交通省の鉄道混雑率の調査に戻ろう。全体の混雑率のほかにも混雑率が高い11の区間が紹介されていた。
見事(?)ワーストに輝いたのは、すっかり常連となっている東京地下鉄(東京メトロ)東西線の木場駅から門前仲町駅に向かう区間で、1時間平均の混雑率は199%だった。
東京のベッドタウンである千葉県船橋市から、集合住宅も多い東京都江戸川区を経て、オフィスビルが林立する大手町方面を結ぶ混雑必至の路線なので(東京圏在住者なら特に)納得の順位である。
地道に改善されていった混雑事情
全体の混雑率が下がってきた現代に、199%もの混雑率である東西線だが、ラッシュがさらにひどかった時代には、どんな恐ろしい状態だったのだろうか。新聞をさかのぼっていくと、1966(昭和41)年10月12日の朝日新聞(東京版)に、東西線に関するこんな意外な見出しが載っていた。
「相変らずガラ空き 都心乗入れの地下鉄東西線」。見出しの上にはガラガラの車内の写真が掲載されていて、新聞には〈中野駅で11日午前10時うつす〉と撮影時間が併記されている。当該新聞の発行日は水曜なので、撮影日は平日の午前中ということになる。
通勤ピークは過ぎているとはいえ、1人も座っていないロングシート(横向きの長椅子)があるというのは、都心の平日の日中にはまず見ない光景だ(始発駅なので、発車までまだ時間があったのかもしれないが)。
実は地下鉄東西線は、この記事の2年前になる1964年に高田馬場駅と九段下駅の間で開業した新路線で、1966年3月に中野駅と高田馬場駅間、九段下駅と竹橋駅間が開業。この記事の11日前に竹橋駅と大手町駅間が開業したばかりのときだった。中野から大手町(東京駅とほぼ同位置)を結ぶ路線でしかないため、国鉄中央線とルートはさほど変わらず、利用メリットがまだ少なかったころだったのだ。
その後、1967(昭和42)年に東陽町駅まで延伸、1969(昭和44)年3月に東陽町駅と西船橋駅(千葉県)間が開業し、現在のような利用価値の高い(混雑しやすい)路線へと成長していったのだった。
このような地下鉄を中心とした新路線が次々と開業し、地下鉄と私鉄の相互乗り入れや、路線の複線化などさまざまな策が施され、東京圏をはじめとする混雑は地道に緩和されていったのである。
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