車社会の未来にはどんな法律が必要になるか 自動運転の実現に向けた法制度上の課題とは
現行法下において、運転者が自動車の運転に必要な注意を怠って死傷事故が生じた場合、その運転者は、過失運転致死傷罪(自動車運転処罰法5条)に問われる可能性がある。
また、仮に自動車そのものに、製造者が必要な注意を怠ったために、運転者が十分に注意しても統制できないような危険を生じさせる欠陥が存在し、それが原因で死傷事故が生じた場合には、製造者に業務上過失致死傷罪(刑法211条)が成立する可能性がある。
なお、この罪について法人を処罰する規定はないため、実際に罪を問われることになるのは、法人内部でかかる危険を統制する義務を負っていた者である。
現行法下において、このような刑事責任の割当てが行われるのは、刑法の想定する人間像が、自由意志に基づいて事物を統制できる存在だからである。つまり、現行刑法は、刑罰という制裁を通じて人間の自由意志に働きかけることによって、人間が事物を適切にコントロールすることで、事物から生じうる危険を封じ込めようとしているのである。
しかし、自由意志に基づく事物のコントロールを前提とする現行刑法を用いると、自動運転車が事故を起こした場合に、適切な刑事責任の割り当てが困難になる可能性がある。というのも、自動運転車の情報処理に利用されるAI(人工知能)の中には、ディープ・ラーニングに代表される、情報処理の過程を完全には統制できないものが存在するからである。
社会的な費用と便益をどう計算するのか
情報処理過程を完全には統制できないことは、運転システムに対する個別のプログラミングや学習行為と自動運転車の事故との間の因果関係を肯定することが難しいことを意味するため、自動運転車の製造者が一切の刑事責任を問われないという結論にもつながりうる。
しかし、自動運転車の製造者は、完全には統制できない危険を流通させていること自体は認識しているため、そのような危険を流通させさえしなければ、すべての事故を防げたことを理由に、なお刑事責任を問われうる余地が存在しているといえるだろう。
もちろん、この結論は承服しがたい「過剰な処罰」につながるものであり、自動運転車の実用によって生じる社会的便益が、その社会的費用を上回っていることを理由として、製造者の刑事責任を追及すべきでないという考え方もありうる。
しかし、このような考え方に立ったとしても、誰が、なぜ、どのようにして、社会に大きな影響を及ぼしうる費用便益計算を行うべきなのかという問題は残ってしまう。現状では、裁判官や検察官によってこのような費用便益計算が行われることになろうが、それが適切であるといえるかについては、異論もありえよう。