徳川綱吉に好印象がない人に教えたい新解釈 教科書に書かれた歴史も常に見直されている

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後年、聖徳太子と呼ばれるようになった人物は、推古天皇の時代に確かにいた。

しかし、その人物は「厩戸王(うまやどのおう)」あるいは「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ぶべきであり、当時、「聖徳」と尊称されていたわけではなかった。以前の教科書では、「聖徳太子は、冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣した政治の中心人物」と記述されていたが、現在では、同時代の蘇我馬子(そがのうまこ)とともに共同で執政した人物と理解されている。決して、聖徳太子(厩戸王)ひとりが政治のリーダーシップを執り、すべてを決めていたわけではないのだ。

このように日本史教科書の記述の変化は数え切れないほどたくさんある。教科書の、かつての記述と現行の記述を比べてみよう。

遣唐使は894年に「廃止」ではなく「中止」

たとえば邪馬台国はかつて畿内説と九州説の両論併記だったが、考古学的な成果を踏まえて、畿内説が有力になりつつあることを示唆する記述が増えている。894年に菅原道真の意見により「廃止」になったとされた遣唐使は、結論を先送りしているうちに結果として遣唐使が終わってしまったとの見方により、「廃止」ではなく「中止」の記述に変わった。

(注)「中学用」「高校用」の教科書の記述を比較し、解説した (出所)『ここまで変わった日本史教科書』(高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一著、吉川弘文館)を参考に作成

そのほか、将軍家の跡継ぎをめぐる問題や有力守護大名の対立によって起きたとされた応仁の乱(1467~77年)は、教科書によって「応仁・文明の乱」と表記されている。江戸時代にとられたとされる政策「鎖国」の語は、現在、高校の学習指導要領からは消えている。

(注)「中学用」「高校用」の教科書の記述を比較し、解説した (出所)『ここまで変わった日本史教科書』(高橋秀樹、三谷芳幸、村瀬信一著、吉川弘文館)を参考に作成

ここでは日本史教科書だけで示したが、教科書に採用されているのは、膨大な歴史研究のごく一部。歴史学では人物や時代の解釈はつねに見直されており、歴史学は進展していく。

ある学説が定説になるまでには、学界で多くの賛同が得られなければならない。発表された学説は批判にさらされることによって、より精緻になったり、また別の史料によって補強されたりする。こうして、それまでの見方が覆り、歴史を見る新たな視点を獲得していく。

過去を振り返る学問である歴史学は不断の進化を遂げている。その変化を知ることも歴史を学ぶ面白さの1つだ。

『週刊東洋経済』4月28日・5月5日合併号(4月23日発売)の特集は、「目からウロコの日本史再入門」です。
長谷川 隆 東洋経済 記者

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はせがわ たかし / Takashi Hasegawa

『週刊東洋経済』編集長補佐

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