「西郷どん」は本当に立派な人物だったのか 2018年NHK大河主人公の「がっかりな実像」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

そればかりか、幕臣であった勝海舟が「おれは今まで天下に恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠(しょうなん)と西郷南洲だ」と、熊本藩士で改革を推進した横井と共に讃えていることを引き合いに出して、幕府の重臣からも認められた人物として西郷を評価する。

あるいは、坂本龍馬が「少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く」と西郷の人物の大きさを語っていることを引き合いに出して、人並みはずれた包容力があったと賛美している。

だが、勝海舟の場合は、西郷と会見して江戸城を無血開城させて江戸を戦火から救ったことから、西郷の度量の大きさを讃えることで自分の業績を誇示したといえる。

坂本龍馬の場合は、西郷は周囲の影響によってしか「響かない」という主体性のない人物であったことを正確にとらえている。事実、西南戦争でも煮え切らない態度を取って、懇願された末に、ようやく総大将についたという経緯がある。

果たして西郷隆盛は本当に傑出した人物であったのであろうか。

僧侶を「殺害」してしまった過去

「私事、土中の死骨にて忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候次第……、天地に恥ずかしき儀の御座候えども、今更になりて候ては、皇国の為にしばらく生をむさぼり居り候」(私は一旦死んだ人間であり、土の中の死骨に等しく、その恥を忍んでいる身であるが、しばらくは皇国のために命を長らえている)(長岡監物宛の西郷隆盛の書簡)

西郷は、幕府の追っ手から逃れてきた京都清水寺の月照(げっしょう)という僧侶と入水自殺を図って自分が生き残り、結果として月照を殺した。先の書簡は、生き残った西郷の悔恨の告白である。

安政5(1858)年11月15日夜半、西郷は月照と鹿児島の錦江湾で入水を図った。月照46歳、西郷が32歳のときである。薩摩藩は月照を殺せと命じていたが、西郷は殺すのは忍びないと、月照と合意して入水したとされている。

だが、維新後に西郷の述懐を聞いた人の話が、『南洲翁逸話』(鹿児島県教育会編)に載っている。

「自分が最も遺憾に思うのは、僧月照の身の上だ。月照が舟の舳先に出て小便をしているところを、後ろから自分が抱き込んで飛び込んだところ、月照のみは死し、自分が生き残ったのは、至極遺憾なわけである」

これによれば、入水は合意ではなく西郷による無理心中で、西郷が生き残ったのであるから、殺人を犯したと見ることもできる。

事件後、奄美大島に流された西郷は、そこで出会った少壮学者で、のちに東大の教授となる重野安繹(やすつぐ)に対しては、次のように語っている。

次ページ「英雄色を好む」とはいえ、あまりにも…
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事