都会の「低すぎるガード下」は、こんなにある もうじき撤去?品川―田町間だけでなかった
上を電車が行き交うガード下。頭がぶつかるほど低い、これぞ珍風景といったガードが東京には何カ所もある。そんなはた迷惑なガードがあるのには、鉄道の歴史や周囲の地形、公共事業の推移などさまざまな要素が絡み合っている。そのいくつかを追ってみよう。
まず東武伊勢崎線牛田―北千住間にある桁下1.6mしかない名称不明の自転車・歩行者用ガード。重厚な煉瓦(れんが)積みの部分もあり、歴史を感じさせる。1902(明治35)年の線路開通時に造られたものと思われる。以前、JR品川―田町間、品川新駅周辺の大規模再開発で消滅カウントダウン状態の高輪橋架道橋を紹介したが、それに匹敵する珍風景のガードといえるだろう。しかもむきだしの煉瓦に直接触れられるなど、歴史を肌で実感できる。
もともとは水路だった?
こんな低いガードを作るより、ここでは踏切としたほうがよほど簡単に思える。なぜこんな低くて狭いガードを作ったのだろうか。
陸軍陸地測量部(国土地理院の前身)による1909(明治42)年測図の1万分1地図を見ると、このガードに向けて細い水路と小道が北側から伸びている。周辺は一面の田んぼである。
想像ではあるが、このガードは田に水を引く水路として作られたのではないだろうか。
水路は細いので、ついでに人も通れるガードにしたようである。少しでも多くの田んぼを作りたかった時代、さほど広くない田んぼのために線路の築堤を貫く水路トンネル(ガード)を作った例は、中央本線高尾駅西方の両界橋脇煉瓦アーチ橋など全国に数多い。今は民家が密集しているが、明治時代の田園風景を想像させてくれるガードである。
もう1つの低すぎるガードとして、池上線洗足池駅からすぐ五反田寄りの名もないガードを挙げておこう。桁下1.5m程度しかなく、もう冗談のように低い。多くの大人は、首だけでなく腰もかがめなければ頭をぶつける。片側はガード下へと下りる階段になっている。踏切にすればいいのに、なぜかガードにしている。
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