忙しすぎる日本人が知らない深く考え抜く力 たくさんの解き方を意識して重ねよう
たとえば朝の通勤電車、いつも以上に混雑していれば「今日は混んでいる、事故があったのか」と考え、「遅延するのでは? 駅に着いたら走るか」と頭に言葉を浮かべる。
このとき、自分の中にはすでに「電車の混雑=事故」「電車の混雑=遅延」という概念があり、目の前の「電車の混雑」という状況を見て、すでにある概念に当てはめ、別の言葉で表現したりしながら「再び(re)+認知(cognition)」する。
このように、単に「考える」とは目の前の事象と自分の知識の答え合わせみたいなものであり、ゆえに「考える」だけなら時間はかからない反面、新しい着想は生まれにくいといえよう。頭に言葉を浮かべるだけでは「考えたつもり」で終わってしまうのだ。
それでは、「深く考える」とはいったいどのような現象なのだろうか?
「深く考える」とは、たとえば未知のものを見たとき、それは何かを考えて、考えて、考え抜いた末に、新しい概念が自分の中で形作られる「cognition=認知」であり、また既知のものであっても、新たな面を見ようと思案する道筋そのものが「深い思考」となってくれる。
たとえば、人が未知の生物を目にしたとする。するとまずは自分の中にすでにある概念と答え合わせをするだろう。「犬? 猫? 狸?」と。
これが「考える」ということだ。
だが、そのどれにも当てはまらないなら、あらゆる角度で見たり、勇気を出してつかまえたり、においを嗅いだり、図鑑を見たりと、あれこれ試行錯誤してその正体を知ろうとする。
こうして、既存の知識と照らし合わせて共通項を見つけたりしながら新たな発見を試みる。
そうやって、自分の力で自分だけの発見をし、それを自分の中にコレクションしていく――つまり、「深く考える」とは、プロセスを省略せずに存分にたどり、さまざまな発見をしながら自分なりの答えを導き出すという営みそのものなのだ。プロセスに意識の重点を置くこと、これが考え抜く力の向上の秘訣といえる。
「ユニークな解答」をする京大生の思考の様相
プロセスを重視する姿勢こそ考え抜く力を高めるわけだが、京都にある寺も深い思考力を得るヒントを教えてくれる。
私のオフィスの近くにある長徳寺には、こんな言葉が掲示されていた。
「人間は本物に出会わないと本物にならない」
この言葉を考察すると、「深く考える=プロセスを省略せず存分にたどる」ということの輪郭がはっきりしてくる。
深く考えた結果の産物は、自分にとって新しい概念であるだけでなく、他者からも「ユニーク」と思われることが多い。
大学教授という職業柄、試験問題の採点を行うわけだが、数学についての採点の場合、こちらが予想していなかった、とてもユニークな解き方をする学生がいる。しかも答えは正しい。
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