ビームス、「株式上場をしない僕たちの本音」  最先端を走り続けるセレクトショップの流儀

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設楽 洋(したら よう)/1951年生まれ。慶応義塾大学卒。電通を経て、父・悦三氏が設立したビームスに参画。88年から現職。社長室(移転前の旧社屋)にはこれまでに集めたグッズが数多く並んでいた(撮影:今井康一)  
2016年にビームスは創業から40周年を迎えた。セレクトショップの草分けとして流行の最先端に居続けることができるのはなぜなのか。業容を拡大する中で上場する選択肢はなかったのか。設楽洋社長に聞いた。

 

――ビームス1号店はわずか6坪の店でした。

半分以上が倉庫で、商品を見るスペースは3.5坪くらい。僕たちは米国に強いあこがれを抱き、「おしゃれでかっこいいUCLA(米カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の学生の部屋」というイメージの店にした。最初は業界関係者などの顧客を対象に、ファッション感度の高い、とがった商品をそろえた。

当時はモノの情報が今ほど容易には得られなかった。どうやら米国で“ニケ”(NIKE〈ナイキ〉)という運動靴がはやっているらしいといった話を聞いては、それらを探して買い付けていた。

1976年の開業当初は細々とやっていた。だが数年後、原宿の街中が、さまざまな商品のロゴをあしらったトレーナーを着る若者であふれた。特にビームスのトレーナーは人気になった。ロゴトレーナーはUCLAの学生が好んで着ていたもの。僕たちがやってきたことに時代が追いついてきたと実感した。

店舗作りはチェーンストアではない

――その後、ビームスはさまざまな業態を開発し、店舗数は150店規模になりました。

ビームスは事業計画書ありきで店を作るわけではない。そして画一化された店作りをしない。そこが通常の小売業と違うところ。1号店開業のときのように、世の中の流れの変化に合わせて自然発生的に事業を始めていく。

「3年後に黒字化」「5年後に10店舗」といった形で先に事業計画を立て、その目標に向かって拡大していくわけではない。もちろん趣味でやっているわけではないからある程度たたき台は作るが、社長がこの事業をやれと言っても商品を売るのは現場のスタッフ。彼らが燃え上がらないとモノは売れない。

1号店のビームス原宿店内。9月中旬から秋物に入れ替え、市松模様に床を一新した(撮影:今井康一)

30年ほど前、僕が子供服を扱おうと言ったら、スタッフから全力で止められた。「とがったビームスに、なぜベビーカーを押すお客が来るのか」とか。

東京以外の地方へ出店しようと言ったときも「ビームスは東京だけでいい」など、社長の言うことが通らない。

ただ、スタッフの年齢が上がっていったことで、子供服の必要性などは理解してもらえた。そして若者の文化を変え、世の中を変えたいという思いで地方に店を作っていくことも皆に賛同してもらえた。

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