「医療費増大という悪夢が社会主義の復活を招く?」ハーバード大学教授 ケネス・ロゴフ

医療の不平等がさらに拡大する

 現在の状況をさらに悪化させうるもう一つの変化は、個人向け医療の重要性が高まっていることだ。

 近代において、清潔な飲料水の提供や定期的な予防接種の実施といった低廉な予防措置が講じられることで寿命は延びてきた。当時は、公共的な予防措置が、個人向けの医療よりも重要であった。

 しかし、今やそのバランスは変化しつつある。先進国における寿命延長の主な要因は心臓手術である。またCTスキャンのような高度なX線による診断技術の進歩によって、ガンは治療可能な段階で発見することができるようになっている。一部の研究者は、「人間の遺伝子に対する理解が深まれば、医者は人々が15年から20年後にかかる病気を事前に予測できるようになり、発病以前に予防的な治療を始めることが可能になる」と予測している。

 死亡率の低下に加えて、新しい医療技術は生活の質にも大きな影響を及ぼすかもしれない。アメリカでは毎年、25万件の人工股関節置換手術が行われている。人工股関節が活動的な生活スタイルに十分耐えられることが明らかになっているため、60歳以下の患者も積極的に手術を受けるようになってきている。人工股関節置換手術の平均的な費用は6000ドル。この金額は、1970年代半ばのドラマ「600万ドルの男」で義手や義眼、義足を埋め込むのにかかると予想された費用に比べ、はるかに安上がりである。

 原則的に言えば、治療分野にもっと市場メカニズムを導入すれば、医療費の増大を一時的に抑制したり、逆転させたりすることができるかもしれない。しかし、そうした効率性の向上による医療費の抑制には、おのずと限界がある。過去の例からわかるように、豊かになれば食費が減るのとは逆に、豊かになれば医療費はもっと増えていくのである。

 医療支出の増大によって医療のイノベーションは加速するだろう。ただ、イノベーションは長期的には医療の状況を改善するはずだが、短期的には医療の不公平と摩擦をさらに激化させることになるだろう。

 私は“医療資本主義”に反対しているわけではない。ただ、このままでは医療保険制度が脆弱化する可能性があると警告しているのである。大半の国は医療制度の運用に際して命令と管理に依存しすぎており、患者と医療提供者が効率的な選択をするためのインセンティブを与えてこなかった。医療費増大の圧力は、自由市場的な資本主義に向かって進んでいる現在の流れを逆転させ、経済の非常に重要な部分を社会主義的なシステムに復帰させることになるかもしれない。「患者を死なせるぐらいなら、医療費負担で国家財政が赤字になるほうがよい」。そう判断する国もきっと出てくるはずだ。

(C)Project Syndicate

ケネス・ロゴフ
1953年生まれ。80年マサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得。99年よりハーバード大学経済学部教授。国際金融分野の権威。2001年~03年までIMFの経済担当顧問兼調査局長を務めた。チェスの天才としても名をはせる。

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