日本の大学教育が機能不全を起こす根本原因 単なる「卒業厳格化」だけでは何も解決しない
プレゼンや学期内リポートの点数が悪いと、テストを受けることすらできないこともある。ドイツでは、これらをすべてクリアして、初めて「大学卒業」の肩書を手に入れることができるのだ。だからこそ、「大卒」の肩書に価値がある。ドイツの大学といってもさまざまだが、私が経験したドイツの学生生活は、このようにシビアなものだった。
だがその分、勉強に集中できるような制度が整っている。授業料は1学期300ユーロ以下(約3万6000円)が多く、家賃が格安の寮が完備されていて、学生証で地域内のバスや電車は乗り放題、博物館や美術館などでも優遇され、国からの経済支援も充実している。だからこそ学生は、「学生だから勉強しています」と胸を張って、勉学にいそしむのだ。
残念ながら、日本には胸を張って「勉強している」と言える学生は多くはない。だからこそ、「学生に勉強をさせろ」というのは、当然の主張だ。実際、横浜国立大学は大学の成績(GPA)2.0以上、山口大学はTOEICの点数を卒業要件に定めるなど、卒業のハードルを上げている大学もある。
成績や専攻を軽んじる日本社会
しかし、学生が勉強しないのは、単に怠惰だからではないのではないか。一部の理系学部や医学部を除き、成績や専攻を軽んじる社会では、大学で勉強する必要がないのだ。なぜなら、まだまだ就職時に大学名や大卒資格を重視する学歴主義が残り、大学教育の中身自体が信用されていないからである。偏差値が違う大学の成績を比較することはできないため、大学名を重視するのは、ある意味合理的かもしれない。また、有名大学に合格した学生を評価すること自体が間違い、というわけでもない。とはいえ、大学名で学位の価値が決まるのなら、学生が「なにも入学してから必死に勉強することはない」と思うのは仕方ないことだろう。
「学生が勉強しない」ことの根本的な問題は、「学生の勉学に対する姿勢」ではなく、大学名を重視する学歴主義や、大卒であるという事実だけを採用の指標にする考え方にある。事実、偏差値という概念が存在しないドイツでは、専攻した学問と、得た成績が重視されるため、学生たちは大学で必死に勉強しているのだ。求められているのは、「学生が勉強しないから卒業を難しくする」といった、その場しのぎの対処療法ではない。「大学で勉強した内容を評価する社会」への、評価基準の本質的な変革が必要とされているのだ。
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