崎陽軒や弁松のお弁当に感じる文化と郷愁 ぜいたくでなくても美味いものは美味い
黄色に茶色のストライプの入った優美な色合いの箱にシルクのリボンがかけられたランチボックスの中身は、焼き上げたパンにフォアグラ、ブラックトリュフ、水の出ないサラダホウレン草を塩胡椒のみで味付けしたもの。茎の切り口から白い汁がにじみ出ているアナトリア産のイチジク、そしてサン・テステフのハーフボトルが添えられている。
何ともレクター博士に相応しいエレガントなお弁当だ。美しい箱の中に少しずつ収められたのは厳選された食材を使った上等な、しかしシンプルなものばかりだ。何も余計なものはない。普段フォアグラやトリュフにそう執着のない私でもぜひ、食してみたいものだと思った。これは、お弁当という食事の形式が持つ力なのではないだろうか。
G. LORENZIのグルーミングキットと同じように、旅先でも決して生活のディテールに手を抜かない、というジェントルマンの気概のようなものを感じた。
崎陽軒や弁松のお弁当
勿論、フォションや京味のような贅沢なお弁当でなければ旨くないかといえば、決してそんなことはない。竹の皮に包まれた大きな塩むすびに、おかずは塩引きの鮭、沢庵2切れと蕗の煮物という、質素だがとてつもなくおいしいお弁当を信州で頂いたことがある。贅沢である必要は全くないが、作ってから食べるまでに時間があき、当然、冷たくなってから食べることを考えた献立のバランスと、食材が上質であることは、ごまかしの利かないお弁当の方が重要である。出来立てで熱々なら大抵のものは食えるが、お弁当はそうはいかない。鮨が、御飯の上に刺身を載せれば良いというものではないのと同じで、おかずを適当に箱に詰めればお弁当になるわけではない。
個人的な好みでは伝統的な江戸の味を守り続けている日本橋の弁松の弁当が一番好きだ。甘辛く濃い味付けの煮物中心のお弁当だが、食べる度に『あー、今、江戸時代の人と同じものを食っている』という気にさせてくれる。何かのルーツがきちっとした形で残っていて、それを愛する人が一定数いる、というのが文化程度の高い国の証ということだ。
次いでは横浜、崎陽軒のシウマイ弁当。実におかずのバランスが良い。これは今、800円で食べられる美味しいもののひとつだ。
お弁当というのは少し大袈裟にいえば、“食”という大宇宙の中でその全ての要素がギュッと凝縮された小宇宙のようなものだ、というのが私の考えだ。だから私は小さなケースの中に複雑な機能を詰め込んだ機械式時計を愛するのと同じような気持ちでお弁当を愛する。