三菱「パジェロ」は本当に終わってしまうのか 次期型開発中止の観測が浮上した背景を探る
人気を受ける形で、三菱自動車は軽自動車規格の「パジェロミニ」や、それと親パジェロ(当時はこう呼ばれた)の中間に位置する「パジェロイオ」を相次いで誕生させた。生産を担当する岐阜県の会社は、名称を東洋工機からパジェロ製造に変えた。今の自動車業界で重視されているブランド戦略を、日本車でいち早く導入した一例かもしれない。
パジェロは先駆の1台
ただパジェロは、単にブームに乗って売れたわけではない。SUVとしては日本初の機構を率先して投入した、先駆の1台である。
三菱自動車はそれまでジープのライセンス生産を行っており、オフロード4WDには豊富な経験があった。しかしジープはライセンス契約のために輸出できず、快適性を度外視したような作りは時代にそぐわなくなっていた。こうした事情から開発されたのがパジェロだった。
当初はジープ同様、4ナンバーの商用車登録で、トランスミッションはMT(手動変速機)のみだった。それが当時の国産SUVの常識だった。しかしその後、ほかに先駆けて5ナンバー車やAT(自動変速機)を導入。ディーゼルターボエンジンはトラック用ではなく、同社のセダン、ギャランΣ(シグマ)と共通だった。筆者も競合車と比較試乗したことがあるが、快適性では群を抜いていた。
「パリダカ」ことダカールラリーでの活躍も、人気を後押しした。初出場の1983年に市販車無改造クラスで優勝すると、3年目の1985年には早くも総合優勝を達成。
以降も優勝争いの常連となり、通算12度の総合優勝を記録するまでになっている。当時のパリダカはその名のとおり、パリをスタートしており、その影響で欧州でもパジェロ人気は高まっていった。
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