12年連続で不登校が増える日本、小・中・高の教育システムがもはや「限界」説…戦後から続く6・3・3制は「アメリカの実験台」か?

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当時は高等学校まで進学できるのはごく一部のエリートに限られ、大半の人が尋常小学校か高等小学校が最終学歴で、教育機会が制限されていたのが実情だ。

報告書は、こうした戦前の制度が「組織として混乱しており、不平等の温床となっている」と鋭く指摘した。そして、男女の区別なく、すべての少年少女に開かれた単一の教育構造、すなわち「6・3・3制」を提言したのだ。

小学校6年間を完全無料の義務教育とし、それに続く3年間の下級中等学校(新制中学校)までを義務化する。さらに、その上に希望者全員が入学可能な3年制の上級中等学校(新制高等学校)を置くという構想は、当時の日本人にとって、民主主義を具現化したような提案であった。

「アメリカが日本を実験台とした」という俗説

この「6・3・3制」をめぐっては、長年「アメリカが自国の制度を日本の試験台として押し付けたものである」という俗説が語られてきた。しかし、教育学者の海後宗臣(かいご ときおみ)はこの見解に疑義を呈している。

事実として、当時のアメリカではすでに多くの州で6・3・3・4制が普及しており、決して日本を実験場にしたわけではなかった。

また、改革のプロセスにおいても、日本側の主体性は発揮されていた。GHQの要請を受け、南原繁(東京帝国大学総長)を委員長とする「日本教育家の委員会」が組織され、哲学者の天野貞祐や夏目漱石の門下である小宮豊隆といったそうそうたる顔ぶれが議論に参加していた。

彼らは使節団の来日前から独自の改革案を練っており、使節団との協議を経て、新学制の採択に至ったのである。つまり、戦後の「単線型学制」は、民主主義という理想を共有した日米の専門家たちがつくった「新しい教育の設計図」であったと言える。

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