12年連続で不登校が増える日本、小・中・高の教育システムがもはや「限界」説…戦後から続く6・3・3制は「アメリカの実験台」か?

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今、この単線型の構造がいかにして誕生し、どのような理想を持って始まったのか、歴史的視点から再考すべき時期に来ている。

教育改革の基礎となった「報告書」をわずか25日で作成

この「6・3・3制」の導入において決定的な役割を果たしたのが、1946年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請で来日した「アメリカ教育使節団」による報告書である。

45年8月の敗戦後、占領下にあった日本は、民主化に向けた抜本的な教育改革を迫られていた。GHQは専門家の知恵を借りるべく、本国アメリカに教育使節団の派遣を要請した。

すると46年3月、ジョージ・D・ストダード団長(イリノイ大学名誉総長)率いる27名の専門家集団が来日した。メンバーにはアーネスト・R・ヒルガード(心理学者)やアイザック・L・カンデル(比較教育学者)など、当時の第一線で活躍していた専門家が名を連ねていた。

彼らの滞日期間はわずか25日間という極めて短期間だったため、日本政府によって集められた日本の教育専門家たちの力も借りることになった。

こうして急ピッチで作成された「アメリカ教育使節団報告書」は、後の教育基本法の制定、男女共学の実現、PTAの設置、ホームルーム、さらには社会科という新教科の導入に至るまで、戦後教育の骨格を形作る決定的な指針となったのだ。

報告書が何よりも最優先事項として掲げたのは、徹底した「教育の機会均等」であった。戦前の日本の教育制度は、尋常小学校を卒業したのち、旧制中学校や高等女学校、実業学校、あるいは高等小学校へと分岐する「複線型」の構造を取っていた。

しかし、この制度下では、家庭の経済状況や性別、居住地域によって、子どもたちの進路が早期に分断されていた。

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