語学を生かし、洋楽からドラマ・映画やエンタメ業界を駆け抜けた前田浩子プロデューサーに聞く半生と日台合作映画の舞台裏
――前田さんと藤井監督の出会うきっかけは?
あるお芝居を観に行ったら、隣の席に座っていたのが藤井監督でした(笑)。観劇後に食事会があって、「この人、藤井道人と言って、初めてオリジナル脚本で映画を撮ったのですけど、ちょっと止まっちゃって……」と紹介されました。それが『青の帰り道』でした。
藤井監督は当時かなり落ち込んでいて「2カ月くらい引きこもっていました……」と言うのですよ。私は初対面だったのになぜか「次!次いこう!次!!」って励ました(笑)。それから、やり取りするうちに、「ちょっと映像化したい短編がある」と相談を受けたのですが、それは何度か他の監督からも相談を受けていた作品で。中国人作家の短編ですが、すでにアメリカの会社に映像権を押さえられていたので、その映画化は叶いませんでした。
それは抒情的なファンタジーだったので「じゃあ、これはどう?」と提案したのが私自身長年映画化を構想していた『宇宙でいちばんあかるい屋根』です。藤井監督はその場でスマホを開いて「今ポチりました!すぐ読みます!」と言いました(笑)。翌日には電話がかかってきてこう言ってくれました。「やります!」。
景色が課題、旅情を出せるルートを探す
これが藤井監督と組んだ最初の映画です。ただ、公開のタイミングが悪かった。公開準備が進み始めた時期、コロナ禍が始まり、映画館が次々と閉まり始めました。もっと評価されていい作品だと思いますが、あの時期は誰もが苦しかったし、作品を完成できたこと自体奇跡だったと思います。
――その後『青春18×2』の企画が動き出します。
台湾側からのオファーに藤井監督は「ぜひやりたい」と言ったものの、ちょうど別の作品の撮影が重なっていたので、「まず前田さんが入って準備を進めてもらっていいですか?」と言ってきました。当時はコロナ禍の最中で、私と台湾チームはリモートで制作準備をスタートしました。
――作品は台湾南部を中心としたロケのほか、日本ロケも旅情あふれるものでした。
日本側のロケハン、いわゆる“プレロケハン”を敢行したのですが、原作は、主人公ジミーが北へ、北へと旅をする淡々とした旅日記なので、映画がどんな景色を見せるのかが大きな課題でした。しかも日本では電車内の撮影がとても難しいのです。そこで「JR東日本企画(jeki)」に相談し、JR東日本内でいちばん旅情を感じられるルートを探して、長野の松本から新潟の幻想的なランタンのシーンへつなげました。



















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