精神疾患による休職率が高い「小学校の先生」、改善の兆し見えず…先生たちを追い詰める"悪しき習慣"がメンタル不調を引き起こしている

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ある地域で、次のような事例がありました。小学校の先生が、連日の保護者対応と細かなトラブル処理に追われ、ついに精神的に限界を超えてしまったのです。驚くべきは、その先生が倒れる直前まで「ここで休んだら子どもたちが困る」と強い責任感を口にしていたことです。

周囲から見ると明らかに限界でも、本人は「頑張らなければ」と思い込んでしまう。背景には、次のような“構造”があります。

・ 小さなけんかでも「先生が何とかするべき」とされる
・ 保護者間の問題にも学校が介入することが期待される
・ 相談先を使うことに罪悪感がある
・ 欠席すると同僚に迷惑がかかると感じてしまう

これは、教師個人の弱さではありません。“境界の曖昧さ”によって生まれる、集団的な幻想と言うべきです。「優しい人ほど倒れてしまう」。これは、学校現場の構造的な問題です。

「不親切」=「あなたを信じている」

境界線を引くことは、冷たさでも責任逃れでもありません。境界線とは本来、

・ 子どもが安心して挑戦できるための“安全な囲い”
・ 境界があるからこそ、人は自立し、優しさを発揮できる

という教育の土台です。これは、心理学でも教育学でも確立された視点ですが、私自身の場合、幼少期の家庭体験に基づく実感が背景にあります。

家庭内で境界が崩れると、子どもは「自分が悪いのではないか」という誤った自己認知を抱きやすくなります。この構造は、学校でも同じです。境界線は、大人にも子どもにも「安心していていい」というメッセージです。

そして、「不親切」とは突き放すことではありません。相手の力を信じ、責任の線引きを明確にすることで、本来の強さを取り戻していく支援の姿勢。これが「不親切」の本質です。

では、何を変えていけばいいのか。境界線を取り戻すために、学校としてできる取り組みは多くあります。

次ページ境界線を引くことは「冷たさ」ではなく「愛」
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