老中首座となった松平定信が田沼派の無能な同僚をクビにしたいのにできなかった切実な理由

御三家の1つ、水戸藩に意見書を提出
天明7年(1787)6月、陸奥白河藩主であった松平定信は、徳川幕府の老中に任命されました。
その同じ年の9月15日、定信は御三家の1つ、水戸藩の藩主(徳川治保)に意見書を提出しています。それによると、同年は豊作で、幕政改革のチャンスではあるが、幕府の財政状況は悪化、人心も幕府から離れ、綱紀も緩んでいる。
が、この危機的状況を抜け出すための策を他の老中は有していない。よって、定信が捨て身の覚悟で改革に邁進するので、自分が存分に働ける状態を作ってほしい。これが、定信が、後援者とも言うべき、御三家の1つ、水戸藩主に願い出たことでした。
それが功を奏し、9月20日、11代将軍・徳川家斉より、上意が伝達されます。
「同列」(同僚)とは評議は致すべきではあるが、遠慮なく、目一杯、行動していいとの将軍からの内意が伝えられたのです。
将軍からの激励の言葉があったのだから、これで定信がすぐに自由に振る舞えたかというと、そうではありません。当たり前の話ですが、いくら自分1人で何事も推進するといっても、それは不可能なことですし、定信の側近となって動いてくれるような部下も必要です。
しかし、現状においては、前老中の田沼意次の「田沼派」が幕府において、いまだ幅をきかせていたのでした。そうした田沼派を排除して「定信派」を創出する必要が、定信にはあったのです。
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