老中首座となった松平定信が田沼派の無能な同僚をクビにしたいのにできなかった切実な理由
「何の害もない」というのは、裏を返せば、無能という意味。よって、何の害もない連中は罷免すればいいではないかという意見は御三家からも出てきますが、定信はそれは困難だとするのです。
「将軍の英断により、彼らが罷免されたと世間は見ないので、なかなか難しい」との理由を定信は挙げたりもしています。
当時、将軍の家斉は15歳の少年。そうした状況で、温厚で篤実な老中たちが次々に罷免された場合、世間は、将軍の決断とは見ないでしょう。
老中首座の松平定信が彼らを罷免したとして、世間の人々は定信を非難する。そうなれば、改革も難しくなる。だから、定信は無能な老中らを好きに罷免することができなかったのでした。
打開策は「将軍が定信を信頼している」と示すこと
しかし、打開策がないわけではなく、その1つを定信は「大老就任」だと主張しています。が、定信は若輩であるので、大老職は勤まらないとしています。よって、大老就任は定信にとって現実的な選択肢ではなかったのでしょう。
2つ目は、将軍からのお褒めの言葉と少将拝任。
3つ目は、これまた将軍からのお褒めの言葉と御道具拝領(将軍から脇差などをいただく)という選択肢。
つまり、将軍家斉が定信を信頼していることを世間に見せつけることが先ず必要だと定信は認識していたのでした。
天明8年(1788)3月、定信は将軍補佐役を拝命します。御三家などからの働きかけが結実したのです。これにより、定信は他の老中から抜きん出た存在となり、松平康福や水野忠友らを罷免することができたのでした。
(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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